1950年代、日本の道路の多くは未舗装で自然発生的な生活道路であり、产业道路という认识があまりありませんでした。しかし戦后の経済発展につれ、日本政府も主要都市间を结ぶ高速道路整备の必要性を痛感しており、海外から技术者や専门家を招いて、道路建设の可能性と経済的効果を调査していました。1956年5月、ニューヨーク?ダン?アンド?ブラッド?ストリート株式会社の调査担当役员であり元米国统计学会长も务めたワトキンス氏を団长に、调査団が来日し80日间にわたり各地の道路事情を调査しました。ワトキンス调査団は、「日本の道路は信じがたいほど悪い。工业国にしてこれほど完全にその道路网を无视してきた国は、日本の他にない」という痛烈な批判を报告书の冒头に掲げていますが、それほと同时の日本の道路事情は悪かったのです。
同じく1956年に设立された日本道路公団は、このワトキンス报告をうけ、名神高速道路の建设を検讨し始めました。この高速道路により、货物输送费を大幅に节约できるばかりでなく、大きな経済的効果が期待されました。
问题はその财源でした。建设见积もりは国内调达で贿える额をはるかに越えていました。また开通予定の1961年度の平均1日交通量は5600台かせいぜい6700台程度で、営业採算に必要な9000台には达しません。完全独立採算までには4-6年が必要とされ、低利?长期の资金调达が不可欠でした。そこで日本道路公団を通じて世银の贷出が申请されました。しかし贷出の前提条件となる建设计画の内容や、融资希望额に対する査定には厳しいものがありました。贷出の条件について何度も交渉を重ねた结果、ついに1960年3月、日本道路公団に対する第一次贷出(4000万ドル)が、ワシントン顿颁で世银のナップ副総裁と日本道路公団の岸道叁総裁の间で调印されました。これはプロジェクトの総コスト见积もり额1亿3100万ドルの约31%に相当します。
建设工事は日本道路公団の监督の下で请负业者が行いますが、最も重要な工事については国际竞争入札が実施されました。これは日本の道路建设では初めてのことでした。また、线形関係については西ドイツのドルシェ氏、土质および舗装についてはアメリカのソンデレガー氏が招かれました。このように、日本の高速道路の技术の目覚しい进歩の原动力には、世界银行の贷出を通じた海外技术の导入があったことは、当时の元理事技师长の斋藤义治氏が社内报「道しるべ」(厂48年11月号)に记録されています。50年代の调査で当时の日本の道路事情を痛烈に批判したワトキンス氏も、69年に东名高速道路开通式に招待された际に「かくも短期间に道路の建设をなしとげた国は世界に例がない」と惊嘆したそうです。
プロジェクトデータ |
调印日:1960年3月17日 受益公司:日本道路公団 対象事业:尼崎―栗东间高速道路 贷出额:4000万米ドル |