1961年、世界银行と日本国有鉄道の間で、ある大型の貸出契約が締結されました。貸出の対象となったのは、当時の鉄道技术の粋を集めた「梦の超特急」プロジェクト――東京と大阪を結ぶ東海道新幹線の建設計画です。
この贷出が日本に与えた影响を理解するためには、当时の日本の鉄道事情をふりかえる必要があるでしょう。日本初の鉄道が开通したのは1872年のことです。これは日本政府が敷设したもので、东京と横浜を结ぶ29キロメートルの路线でした。
官営鉄道の営业距离は1881年には135キロメートルまで延びますが、その后は财政上の理由から民间公司にも鉄道事业への参入が认められます。9年后の1890年には官営鉄道の営业距离は886キロメートル、民営鉄道の営业距离は2,124キロメートルに达しました。
政府と私鉄各社はその後も路線を延ばしつづけますが、その結果、短距離の民営鉄道が乱立するという事態が生じました。これを憂慮した日本政府は1906年、鉄道による長距離輸送を実現するために鉄道国有法を定め、一部の地方鉄道をのぞくすべての私鉄を国有化しました。国有化の結果、官営鉄道の営業距離は1907年末で6,407キロメートルに達しました(短距離の民営鉄道は717 キロメートル)。路線の建設はその後も年470キロメートルのペースでつづけられ、1937年には合計約2万キロメートルに達します。1938年以降は新たな路線の建設よりも既存路線の改良に重点が置かれるようになりました。
1961年5月1日、世界银行は东海道新干线の建设プロジェクト(総工费3,800亿円)に対し、8千万ドルの贷出(ローン0281)を承认しました。东海道新干线は东京、横浜、名古屋、京都、大阪を结ぶおよそ500キロメートルの路线で、当时としては世界最速の长距离鉄道でした。新干线の建设は、日本政府がすでに着手していた大规模な鉄道开発计画の一角をなすものでした。
东海道地域は日本を代表する工业地帯です。ところが、当时は需要の伸びに输送能力が追いつかず、地域の経済発展そのものが危ぶまれる状况がつづいていました。干线道路は慢性的に渋滞し、东海道本线はパンク寸前の状态にありました。狭轨のレールの上を日に186本の旅客列车、124本の货物列车が走っていました。
1956年5月10日、日本国有鉄道は调査チームを设置し、东海道新干线の実现可能性调査に乗り出します。プロジェクトは1958年12月19日に承认され、1959年4月20日には起工式が行われました。そして1964年10月1日、ついに东京と大阪を结ぶ东海道新干线が开业します。东海道新干线は全区间で标準轨间?复线构造を採用した电化鉄道です。轨道构造には定尺レールを溶接して継目をなくしたロングレール(1本の长さは约1マイル)と笔颁まくらぎが採用されました。レールとまくらぎは二重弾性缔结方式で缔结され、ロングレールの両端にはレールの伸び缩みを吸収する伸缩継目が敷设されました。また、高速走行を可能にするために、カーブの角度はできるかぎりゆるやかに设计されました。
计画には67箇所のトンネル(総距离68.4キロメートル)の掘削も含まれていました。このうち18本は全长1キロを超える长大トンネルで、最长は7.9キロメートルの丹那トンネルです。総距离57キロメートルの桥梁、东京地区には2.2キロメートルの地下区间も作られることになりました。このほかにも高架化など、起伏のある丘陵地帯に高速列车を走らせる工夫が计画の随所に盛り込まれました。こうした区间は东海道新干线の営业距离(约500キロメートル)の45%、実に226キロメートルに及んでいます。
当初の计画では、夜间には货物列车を时速约百マイルで走行させることになっていました。列车は东京にある列车集中制御装置(颁罢颁)で制御され、指令员との交信には无线が使われました。车両は軽量な电化车両を连结したもので、すべての车轴にはモーターが取りつけられ、乗客の安全を确保するため、また快适な乗り心地を実现するために、振动や騒音、热伝导を抑える仕组みも取り入れられました。トンネルを高速で通过するときや対抗列车とすれ违うときの不快感を抑えるために、车両の気密性にも万全の注意が払われました。
旅客列车は最大で12両编成、座席数は987席でした。开业当时は东京?大阪间を朝6时から30分间隔で列车が运行しました。そのうち半分は名古屋と京都に停车する超特急の「ひかり」です。その他の列车は东京?大阪间の主要各駅に停车しました。
事故のリスクを最小限に抑えるために、开発チームは试行错误を重ねます。さまざまな试作车が作られ、试験走行がくりかえされました。线路の设计にも长い时间が费やされました。
1994年、世界银行南アジア地域担当副総裁の西水美恵子は世银の行内誌『バンク?ワールド』のなかで、この贷出の重要性を次のように语っています。
「私は世界银行についてほとんどなにも知らないまま、この歴史ある组织でしばらく働いてみることにしました。この决断は父を大いに悩ませたようです。教授になったばかりか、今度は世界银行に入りたいなど、父にとっては我慢の限界だったのでしょう。父の呼びかけで亲族会议が开かれました。
ところが、味方は意外なところにいました。母方のおじのなかに、日本国有鉄道につとめていた人物がいたのです。何十年か前、まだ血気さかんな若手技师だったおじは新干线プロジェクトに配属されました。これは世界银行の贷出を受けたプロジェクトでしたから、世银についても多少の知识があったわけです。おじは亲族会议にやってくると、居并ぶ亲戚たちに向かってこういいました。「世界银行をただの金贷しだと思ったらとんでもない。世界银行は日本にとってかけがえのない教师だったんですよ。」
もちろん、世界银行の技师に教えを请わなくても、日本にはすでに高い技术力がありました。日本が世界银行から取り入れたものは、むしろ<プロジェクトを见る目>でした。日本の技师たちは世界银行から合理的なプロジェクト分析、费用便益分析、乗车券の価格设定を学び、そしてなにより、新干线の建设を鉄道システムという狭い枠组みではなく、一国の输送システムという広い视野から捉えることを学んだのです。
私もまた、世界银行という教师から多くを学ぶことになるでしょう。当时の技师たちが世界银行から学んだことは、その后の新干线事业を含むあらゆるプロジェクトに生かされています。」世界银行から日本への贷出は1966年で终了しました。1953年から1966年の间に世界银行が日本に対して行った贷出は31件、合计8亿6200万ドルにのぼります。
プロジェクトデータ |
调印日:1961年5月2日 受益公司:日本国有鉄道 対象事业:东海道新干线 贷出额:8000万米ドル |