1962年12月、日米経済阁僚会议に出席した田中角栄大蔵大臣は、世银に东名高速道路のうち、东京-静冈间プロジェクトに1亿ドルの贷出を申し入れました。これに対し世银は、产业投资道路外债2500万ドルおよび日本外债5000万ドルの発行を条件に、総额7500万ドルの贷出额を提示しました。1963年9月、道路案件としては3件目となる日本道路公団への贷出が调印されました。
日本政府と日本道路公団はさらに、豊川-小牧间78キロの建设资金にあてるため、建设资金5000万ドルの贷出を依頼し、1964年4月に调印されました。建设费、土地収用费、设计费、监督费、一般管理费および建设中の利子支払いを含めたプロジェクトの総コストは约1亿7100万ドルと见积もられ、世银の贷出はその3分の1近くを占めることになります。
翌年1965年には、さらに静冈-豊川间の建设に対して7500万ドルの贷出が调印されました。
1963年11月、东京-静冈间の工事が着工されました。しかし、コスト见积もりが当初の予定を上回り増加したため、日本政府と日本道路公団は追加贷出を依頼しました。これを受けて3年后の1966年7月、世银はさらに1亿ドルの追加贷出に调印しました。
このように、东名高速道路への贷出は4回にわたり、総额3亿ドルにのぼりました。しかし日本道路公団に対する世银贷出の贡献は资金面のみにとどまりません。世银贷出を通じて、新技术の导入や公司体质の强化が実现したのです。世银が贷出の条件とした外国人コンサルタントにより、「クロソイド曲线」、「透视図法」、「修景设计」など道路建设に関する最先端の技术が日本に导入されました。日本道路公団元常任参与で道路技术の第一人者である武部健一氏は、西ドイツから来日したアウトバーンの设计専门家ドルシュ氏からクロソイド曲线を学んだ一人です。武部氏は、クロソイドを使った流れるように美しい线形の魅力のとりことなったこと、また当时のドルシュ氏と道路公団の几何构造设计の担当技术者の间の热のこもったやり取りを、「私の高速国道建设史」(旬刊高速道路新闻 昭和58年10月5日)の中で振り返っています。
建设省から道路公団に出向し东名高速道路建设に技术者として携わられた岩间滋氏も、当时の世银による技术导入について、「世银は色々なおせっかいを言ってきたが、役に立ったものも多かった」と、语っています。
プロジェクトデータ |
调印式:1963年9月27日 受益公司:日本道路公団(3次) 対象事业:东京―静冈间高速道路 贷出额:7500万米ドル |
调印日:1964年4月22日 受益公司:日本道路公団(4次) 対象事业:豊川―小牧间高速道路 贷出额:5000万米ドル |
调印日:1965年5月26日 受益公司:日本道路公団(5次) 対象事业:静冈―豊川间高速道路 贷出额:7500万米ドル |
调印日:1966年7月29日 受益公司:日本道路公団(6次) 対象事业:东京―静冈间高速道路 贷出额:10000万米ドル |