木瓜影院

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特集2010年6月15日

児玉十代子 世界銀行 東アジア?太平洋地域総局 持続可能な開発局 インフラストラクチャーセクター 業務担当官~第17回 世银スタッフの横颜インタビュー

丁寧で穏やかな女性らしい语り口のなかに、しっかりとした意志が垣间见える児玉さん。豊富な留学体験から、民间公司や他の开発援助机関も経験して、现在のポストにつくまでの道のりなどをたっぷり语っていただいた。

Toyoko Kodama

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兵庫県西宮市出身。神戸女学院大学の英文学科を卒業した後、1995年より2年間カナダのマギル大学にて開発人類学と経済学を学ぶ。この間、夏休みを利用して2週間ほどフィリピンのマニラ市とケソン市のスラム街を訪れる。このときの体験がきっかけとなり、本格的に開発の道を目指すようになる。マギル大学のプログラムを修了した後、大阪府の豊中国際交流協会にて一年間勤務。その後ロンドン?スクール?オブ?エコノミクス(LSE)の修士課程に進学。発展途上国における社会政策?計画での修士号(MSc. in Social Policy and Planning in Developing Countries)を取得し、主に都市開発問題とプロジェクト形成について学ぶ。修了後、外資系企業にて4年間勤務。そして、旧国際協力銀行(JBIC、現在のJICA)にて1年間ベトナムにてコンサルタントとして円借款の案件監理に従事し、次の2年半は東京にてJBICの専門調査員としてプロジェクト評価に携わる。円借款の評価とオペレーションの実務経験を積んだ後、2007年10月より世界銀行に転職。2年間のコンサルタント(Extended-term Consultant:ETC)を経て現職に至る。東アジア?太平洋地域総局インフラストラクチャーセクターにて都市計画と水分野のプロジェクトに従事。

开発の道に进もうと决めた理由

开発に兴味を持ったきっかけは、大きく言うと2つあるんです。まず1つ目は、小学校に入ったばかりのときに知った「えんぴつ供养」という运动。主旨は、短くて使えなくなった铅笔を集めて、それを换金し、ワクチンを购入してバングラデシュに寄付しようというものでした。そもそも「バングラデシュ」という単语を知らなかったので、最初は「それって谁?」と思っていました。でも、両亲に闻いて国の名前だとわかり、自分が暮らしている日本よりも、ずっと贫しくて困っている国があることを知りました。「じゃあ、その人たちのために何かしよう。」そう思って、友达や両亲、祖父母に頼んで使い古しの铅笔を一生悬命集めたんです。今思えば、それが开発という仕事に兴味を持った原点なのでしょうね。

2つ目は、マギル大学に行っているときに友人と访れたフィリピンでの体験です。大学では开発人类学を学んでいたんですが、「理论だけではなく、现场で何が起こっているかをこの目で见たい」という思いを実现させるため、夏休みにフィリピン行きを计画しました。2週间ほど滞在したのは、マニラ市とケソン市。知り合いのつてをたどって现地の狈骋翱を绍介していただき、スラム地区の生活环境向上のための活动(コミュニティ?ディベロップメント)を见学させてもらいました。1週间ほどずっとスラム地区のあちこちを歩き回りましたが、本当に色んな意味で目から鳞が落ちましたね。ゴミが浮いているドブ川の水を生活用水に使っていたり、子供たちが靴を履かずに駆け回ったり、スコールが降るとみんながその水で体を洗ったり。家の中をのぞいてみると、かき集めた板で作ったような家なのに、拾ってきたのかどうか、立派なテレビやオーディオがあって惊いたこともありました。2週间滞在した后の率直な感想は、「小额のお金でも色々なことができるんだな」ということ。実际にそのプロジェクトでは电気を通したり、地区内に井戸を掘ったりということをやっていたんですが、结果的にそこで自分でも何かの役に立てるかもと感じたことが、开発の道へと自分を后押ししてくれました。

カナダへの留学、そして第叁セクターへの就职

话が少々前后しますが、なぜカナダの大学に行ったのかという话をしておきましょう。最初に进学した日本の大学では英文学を専攻していたので、大学院で开発関係の専攻に进みたいと思ったときに必要となる単位が足りなかったんです。そこで、いい先生がいて大学の质が高く、かつ比较的学费が安いことなどを考えて、カナダの大学に进むことにしました。私が行ったマギル大学のあるモントリオールという街は、カナダの中でもフランス语圏になるケベック州にあります。そのためフランス文化とイギリス文化が混ざり合っていてとても面白い街で、それも魅力の一つでした。アメリカに比べても生活费も安く、治安もいいので、亲を説得しやすかったというのもあります。

その後いったん日本に帰って、大阪の豊中国際交流協会というところに就職しました。大阪府豊中市の第三セクターのような位置づけの組織で、地域で暮らす住民へ海外文化の紹介や、在日外国人親子を対象とした日本语教室など、活発に活動している団体なんです。しかし、海外の大学院に行きたいという気持ちを捨て切れず、そこで事業の企画などを担当しながら受験勉強も並行して進めていました。

仲间に恵まれたロンドンでの大学院时代

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1年ほど働いた後、ロンドンのロンドン?スクール?オブ?エコノミクス(London School of Economics and Political Science(LSE))に合格して念願の大学院留学を果たしました。イギリスの大学院を志望した理由は、1年で修士号を修了したかったから。それからこれは後で実感したことですけど、ロンドンはやはり人の行き来がある街なんですね。LSEでは毎週ゲストスピーカーが来て、ノーベル賞を受賞したアマルティア?セン教授や投資家のジョージ?ソロス氏など様々な著名人が講演を聞く機会がありましたが、それもヨーロッパからアメリカへの中継地点にロンドンが位置していることが非常にプラスに働いている例だと感じました。

私のクラスは社会人経験がないと参加できないクラスだったので、年齢层が高くて30代后半や40代の方が普通にいましたし、45人ほどのクラスで出身国が30か国ほどと、国际色も豊かでしたね。みんな大人でそれぞれキャリアを持っているのに、谁が伟いとか上といった感覚はなくて、お互い尊重し合い、それぞれの経験に兴味を持って话を闻こうとする姿势がありました。教授との関係も対等でしたね。クラスではみんなでそれぞれの経験を话し、よく议论をしました。何よりもみんな话すことが好きで、金曜日はよく学校の近くのパブで开発について语っていました。そういうすばらしい仲间に恵まれたので、1年间有意义な学生生活を过ごすことができたと思います。

やりたかった仕事に巡り会った喜び

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ロンドンで大学院を卒业した后は日本に戻って就职活动をしました。その结果、民间公司2社と外务省の在外公馆での専门调査员に内定を顶いたのですが、公的机関に行くべきか民间机関に行くべきかか迷ってしまって。知り合いの方に相谈したところ、民から官には行きやすいけれども官から民には行きにくいこと、若いうちは比较的民间の方が色々な経験をさせてくれる倾向があるということで、民间公司を勧められたんです。それである外资系公司に就职して、経理関係のシステムの仕事を担当したんですが、正直最初は辛かったですね。折りしもコンピュータ2000年问题の时で、入社して2ヵ月后にはすでに终电に间に合わないほど残业していて、「あんなに死に物狂いで勉强したのに、なんで今こんな仕事をしてるんだろう」と思ったこともありました。

结局その公司で働き続け、4年が経とうとする顷に、旧国际协力银行(闯叠滨颁、现在の闯滨颁础)にいた友人に教えてもらって応募した、ベトナムでのコンサルタント业务に合格したんです。1年间のベトナム时代は、ずっとやりたかった开発関係の仕事に携われていることが嬉しくて嬉しくて。友人からも「水を得た鱼だね」と言われました。もちろん、それまでいた民间公司との违いには苦しめられましたが…。例えば、民间公司で最も重视しなければいけないのは「コスト」。でも、开発で重视することは人それぞれ违う。ある人は「环境」と言い、ある人は「経済」、こっちの人は「インフラ」。まったく合意が取れないんです。内部调整にも骨が折れますし、それまで自分が作り上げてきた判断基準を白纸に戻すのに时间がかかりましたね。その后3年间は东京にいたのですが、出张も多かったので现地で世银职员などと会ったり、意见交换をすることもありました。でもそのときは「ここで働く可能性もある」というふうには考えもしなかったんです。

転职を决めた一通のメール

JBICでの任期が終わる半年ぐらい前に次のステップを考えていて、「次は国際機関に行きたい」と思ったんです。それで国連のJPOを受け、内定をもらえたのはよかったものの、説明会に行ってもいまひとつピンと来ない。私は案件形成や案件監理の業務をやりたかったのですが、説明を聞いていると行きたい部署や、やりたい仕事と違っているのではと疑問を感じたんですね。それで「とにかく選択肢を増やすために、もう一度就職活動をしよう」と決めて、Club JPOのメーリングリストを見ていたら、ふと世界銀行のコンサルタント(Extended-term Consultant:ETC)の募集が目に入ったんです。最初は「ETCって何?」と思っていたのですが、偶然そのときにお仕事をしていたコンサルタントに元世銀職員の方がいて、お話を伺ったところ、「興味があるなら紹介状を書いてあげるよ。」と言って下さって。テストや面接を経て幸運にも合格することができました。周囲のアドバイスもあって、世界銀行への入行を決めたんです。

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もちろん承认の手顺など细部の违いはありましたが、プロジェクトの进め方は闯叠滨颁と似ていて、スムーズに仕事になじむことができましたね。现在は、例えば上海の廃弃物処理や、モンゴルの首都?ウランバートルのゲル地帯に住む人々の生活向上プロジェクトなどを担当しています。もちろん、日々の仕事のなかで煮詰まってしまうこともありますよ。でも、むしろそんな时にこそ国际机関で働いているありがたみを感じますね。周囲の外国人たちはいつでも「そんなことでくよくよするなよ、ハッハッハ」みたいな乗りですから。何なんでしょうねえ、本当に彼らは阳気で冗谈好きで。一绪に働いていると、その明るさに救われることも多いですね。

私は、世界银行が自分のキャリアの终着地点だとは思っていないんです。次の段阶に进みたいと思うときが来たら、自然と一歩踏み出す日は来ると考えています。でも、3年目の今でも、やりがいのある仕事を担当させてもらって、これから学びたいこともいっぱいあって。そう思えることが本当に幸せですね。まだまだ当分、世银での仕事を通して自分の専门性を高めていきたいと思っています。

本当にやりたいことを実现できる场所って?

若い人には、「国际机関に行くのが目标」というのもいいですが、自分が本当にやりたいのは何なのか、そしてそれが実现できるのはどこなのかを、改めて考えて欲しいですね。闯滨颁础理事の绪方贞子さんも言っているように、この仕事は情热だけではできない仕事なので、「自分はこれがしたい」と思えるものがあり、かつそれをこなせる技量を身につけていないと、入ってからが大変ですよ。だから私も勉强を続けていかないといけないと思っています。

また、すぐにあきらめてしまう倾向が若い人には强い気がしますね。任命された业务に関して、ちょっと行き詰ったりわからなくなったりしても「できません」と言わずに、一度死に物狂いでやってみてください。自分自身、过去を振り返るとそうやって无我梦中でやった仕事や勉强から得たものがすごく大きかったと思うから。

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