挫折の繰り返しだった学生时代 公立の中学校では、テストでトップの成绩をとって仲间外れにされたこともありました。でも、その后进学した庆应义塾女子高等学校では、皆さん优秀でそれまでの自分の「井の中の蛙」ぶりを思い知らされましたね(笑)。そんなとき、交换留学プログラムでハワイに行って、すっかりその开放的な雰囲気に感化され、「ハワイ大学に行きたい!」と强く思ったんです。でも亲に駄目と言われて、絶望的に落ち込みました。亲と1年近く口を闻かなかったぐらいですから。高校3年の3学期から、そのままエスカレーター式で进学した大学の夏休みまで、学校にも行きませんでした。これ以上休むと留年する、というところまでいって、「これで留年するのも马鹿马鹿しいな」と思ったのと、高校からの友达と大学のクラスメイトたちが「おいでよ」「ノート见せてあげるよ」と言ってくれて、大学1年の秋からやっと学校に行くようになりました。ただ、その1年の间の出来事はほとんど覚えていないんです。思い出も写真もなくて、空白の1年という感じですね。それで「写真で残す」ということの大切さに目覚め、大学时代からは日记のように写真を撮り始めました。风景などの抽象的な写真が好きで、暗室作业もやっていました。娘が产まれてからは、すっかりフィルムからデジタルになり、撮るのも娘ばかりになってしまっていますが。
民间公司への就职、その后ニューヨークへ 大学を卒业してすぐ、株式会社リクルートに入社したんです。当时は就职氷河期で、4年制大学の女子の募集は本当に少なかったですね。マスコミに行きたかったんですが、新闻社や広告代理店は新卒を取らないというし、どうしようと途方に暮れていたら、当时のアルバイト先のリクルートの方が「うちにくれば」と言ってくださって。音楽が好きで、ずっとピアノをやっていたので、ピアノとエレクトーンの先生になることも考えましたが、お诱いを受けて就职を决めました。
リクルートには5年ほどいました。ハードワークで体调を崩したのと、ある会议で同じ内容だったのにもかかわらず、私の意见よりもある男性の意见の方が重视されたのを感じて、これからのことを真剣に考えよう、と退职したんです。その后、「将来のことを考えるため」が半分、単纯に「好きな场所に行ってのんびりしたい」という気持ちが半分で、ある语学学校のプログラムを利用して、2か月间のニューヨーク语学研修に参加しました。これが、自分の中での大きな転机だったと思います。
国际平和に开眼した国连のツアー 语学研修中に参加した国连の见学ツアーで、広岛の原爆の遗物を见て衝撃を受けました。日本人として、今まできちんと原爆について知らなかったということも含めてショックでしたね。それで、国连ってどういうところなんだろうと兴味がわき、「国连で仕事をしてみたい」と思ったんです。たまたまその语学研修中に仲良くなった、大学院の留学生のアドバイザーの方に相谈したら、「このまま惭叠础プログラムに入りなさい」と言われて。日本を出発するとき、亲に「体を壊したのに海外なんかに行って、大丈夫なの?」と心配されて「2か月で帰るから」と答えていたのに、そのまま大学院に入ってしまいました(笑)。
ただ、その大学には私のやりたかった人事系の専攻がなかったので、とりあえずマーケティング専攻で入学し、籍を置きつつ他の学校を探しました。その结果、见つけたのがコーネル大学とニューヨーク市立大学の合同プログラムでした。そのプログラムには仕事をしている人たちばかりが参加していて、マンハッタンの中间管理职の人たちと一绪に勉强できたことも大きかったですし、マンハッタンの会社でも色々なインターンシップを経験できて、大きな刺激を受けましたね。
国际公务员として様々な组织を経験
大学院を修了して、外务省のジュニア?プロフェッショナル?オフィサー(闯笔翱)というプログラムと国连竞争试験を受験し、最初に合格通知を受け取ったのが闯笔翱だったんです。それで、ジュネーブにある国际労働机関(滨尝翱)本部に闯笔翱として赴任しました。ヨーロッパに住むのは初めての経験だったので、楽しかったですね。それまではどちらかと言えば开発よりも国际平和に兴味があって、あまり开発に関する知识はなかったのですが、女性问题に関する仕事を担当して、その知识をいろいろと学ぶことができました。2年の契约期间が终わる顷、滨尝翱が予算的にいろいろと厳しい时期だったこともあって「そのまま正规の职员として残るのは难しいんじゃないか」という噂を闻き、他の组织にいくつか履歴书を送ったところ、経済协力开発机构(翱贰颁顿)から合格通知があったので翱贰颁顿に移りました。当时25ヶ国ほどが参加していた翱贰颁顿は、非常に恵まれた环境にある印象でしたね。当时の翱贰颁顿で働いたことは贵重な経験になったと思っています。
そんなとき、大学院を修了するときに合格していたけれども空席がなかった国连竞争试験の仕事に空きができたという知らせがあったんです。今ではもう1年ぐらいしか、空席を确保してくれないようなんですが、当时は3年ほどキープしてくれていて、たまたま合格通知が来たんですね。翱贰颁顿もよかったんですけれども、ずっと働きたかった组织というのと、住むところとしてはパリよりもニューヨークが好きということもあって国连を选びました。仕事としては、最初は补助スタッフの採用、ユーゴスラビアの平和维持活动への人材派遣。その后専门职の职员を採用する部署に在籍していた际に、世界银行の方から逆ハンティングしていただいたんです。
採用担当の醍醐味 国连から世银に入って、引き続き人事で採用の仕事を担当しています。国连と世银でいろいろと违いはありますが、人事が採用するというより、现场のマネージャーたちが决定権を持っているという点は双方とも共通していますね。最も大きな违いは、给与に関して国连は年功主义で、世银は成果主义ということでしょうか。
この仕事をしていて感じる醍醐味といえば、部局のマネージメントに贡献しつつも、个人のキャリアアップにも贡献できることですね。组织の目标?存在意义をアピールして、优秀な方に来ていただくのが目的ですから、人探しはグローバルに行いますし、ネットワークは世界中にあります。现场のマネージャーにどんな人に来て欲しいのかを闻き、全世界から候补者を探して、その人が组织に入ってくれて长く活跃してくれる、採用担当者としてこんなに嬉しいことはありませんね。
现在はジョージワシントン大学の博士课程に所属しています。必须?选択授业は3年前に履修し终わり、现在は论文を书くためにデータ収集を行っているところです。组织文化を研究していて、世界银行に関するテーマで论文を书こうと考えています。日本には、毎年夏に帰るようにしています。亲戚などいろいろな人に会わなくてはいけないので疲れるんですが(笑)、娘に母亲の母国をきちんと见せてあげたいという気持ちもあって、我が家の恒例行事になっています。
早いうちに「日本の外を见る」経験を
どの学校に行ってどのようにキャリアを积むかを绵密に计画するのもいいですけれど、それだけが国际公务员への道ではないと思うんです。私自身、行き当たりばったりでここまで来たので。
自分の将来について悩んだり、色々なことに挑戦するのはいいことだと思います。私たちが学生だった顷と违って、今はインターネットなどの通信手段も格段に発达しているし、ボランティアや海外青年协力队、国际狈骋翱など様々なプログラムに参加できるチャンスも本当に豊富ですよね。
一番もったいないのは、「やることがない」「つまらない」という気持ちで、毎日をなんとなく过ごしてしまうこと。「舞台は世界」と思って、ボランティアでも海外旅行でも、何でもいいから日本の外を见てみる、という経験をまずはしてみてください。私も高校生のときのハワイや、语学研修で行ったニューヨークで大きな刺激を受けましたし、一度海外に出てみないと、日本人としてのアイデンティティはわからないと思うんです。刺激を受けて考えたことが、将来自分がやりたいことのヒントになったり、自分を见つめなおすいい机会になったりもしますから、そういった経験を早いうちから积んでいくことを、学生の皆さんにはお勧めしたいですね。