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特集2010年10月19日

小城直子 世界銀行 貧困削減?経済管理総局 経済政策?債務局 上級エコノミスト~第23回 世银スタッフの横颜インタビュー

より高い専门知识を取得し、熟练したマクロエコノミストとして国际开発に贡献したいという强い思いから、世界银行→滨惭贵→世界银行という珍しいキャリアを歩んだ小城さん。今までのキャリアや现在の仕事について、はきはきとした口调で率直に语っていただいた。

Naoko Kojo

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大阪府豊中市生まれ。明治学院大学文学部卒。日本の一般公司に勤务后、渡英。サセックス大学経済学修士号、ロンドン大学金融学修士号、そしてケンブリッジ大学経済学博士号を取得。1998年9月、ヤング?プロフェッショナル?プログラム(驰笔笔)を通じて世界银行入行。东アジア?太平洋地域総局、南アジア地域総局でエコノミストとして勤务后、世银を退职し、2003年ミッドキャリア?エコノミスト採用プログラムで滨惭贵に移る。财政政策局に3年弱勤务后、2005年世银に再入行。アフリカ地域総局を経て、现在、贫困削减?経済管理総局経済政策?债务局所属の上级エコノミスト。マクロ経済政策、特に财政政策、债务管理を中心に研究?分析?データ収集を行い、最新のベストプラクティスの蓄积?考案に携わる。さらに、要请により地域総局の国别担当エコノミストへ経済分析の支援、及び途上国政府に直接政策の助言を行ったり、世银エコノミスト育成のためのプログラムにも携わる。趣味はクラシック音楽、ピアノ、洋裁。

「英语での授业」で决めた大学、途上国への旅行

大学を選んだのはミッション系、ランゲージラボがある、そして 英語で授業があるという理由のためです。大学では英文学部でしたが、音声学を専攻しました。当時女子学生は当たり前のように短大や文学部という時代でしたから、英文学や音声学を専攻することに何の迷いもありませんでした。もっとも出身高校のカリキュラムでは経済学は3年生まで出てこなかったので、そのころは経済学の面白さを全く知らなかったのもありますが。日本の大学で文学部を出た私が、その後海外で経済学の博士号を取得し、世界銀行で働くことになるとは、そのときはまだ考えてもみませんでした。

大学时代はサークル、アルバイトの傍ら、とにかくよく旅行しましたね。インド、パキスタン、トルコ、ヨルダン、シリア、エジプトなどの、当时は20歳そこそこの女子大生が行くには、かなり特殊というか、エキゾチックな国も访问していました。父の仕事の関係で、子供のころ途上国に住んだこともあるため、私もそういった国に対する偏见のようなものはあまりなかったのだと思いますし、両亲もたぶんそうだったのでしょう、毎回快く送り出してくれました。まあさすがにトルコ中をバックパッカーとしてキャンプして回ったと、帰国して言った时には口を利けないほどショックをうけていましたけれど(笑)。

就职、そして固めたある决意

大学を卒业した后は、日本の民间公司に一般职として入社、国际金融、とくに海外融资を数多く取り扱う部署に配属されました。私の担当する案件は开発途上国、および东ヨーロッパが主でした。私にとっては、これが経済と国际金融への出会いです。そこでそれまでほとんど知らなかった、経済理论、金融実务に触れ、その面白さにのめりこみました。

当时、日本はバブル景気の真っ只中、会社の业绩も上向きで、けっこう楽しい会社员时代でしたよ。ただ、最初のうちは周りからちやほやされていても、次の年に新しく新卒女子社员が入ってくると、みんなの注目が露骨に向こうに夺われることにある日気づいてしまって(笑)。入社后2年目には、「一生自分でお金を稼いで生きていくのなら、この会社には定年までいられそうもない」と思い、长期的な将来设计の必要性を感じました。

実はこの时点で、国际开発関係、特に国连、青年海外协力队に大変兴味があったのですが、何せ文学部出身。応募资格もなかったんですよ。この时点で选択はいくつかあったのですが、仕事を通じて入った金融の世界の面白さ、そしてちょうど东侧共产圏の崩壊に伴って発生した顾客国の债务不履行などを経験し、途上国に対する问题意识、本格的な経済学への兴味が强まり、大学院への进学を考え始めました。

最初は働きながら、上智大学の夜间のコースに通い始めました。当时はフルタイムの社会人向けの大学讲座などあまりなく、英语で开発経済学のコースといえば、上智しかありませんでした。バブル时代の真っ最中でしたから、学校がない日は仕事は毎日夜中まで、そして终电后なのでタクシーで帰宅后に夜中の2时ごろまで勉强と、ギリギリまでやった结果、何とか先が见えてきた感じ。そして、入社后3年目、勉学に集中するという结论を出しました。

もともと勉强が好きだったというのもあるんですが、大学を出た时点で本当は大学院に行きたくて父亲に话しのですが、「とにかく一度社会に出なさい」と强く言われて就职の道を选びました。実际に自分が就职してみてなるほどと思いました。就职することでぐっと视野が広がりました。国际金融の面白さ、経済学への兴味、开発问题への热意もここで确认することができましたし、人间関係、责任感などすべての面に関し、やはり学生时代は甘く考えていましたから。いろいろな考え方があると思いますが、个人的にはストレートで大学院に行くより、一度社会に出てみることをおすすめします。特に、日本の一般公司でフルタイムで、そしてできれば正社员で働くことは大変意义のあることだと思います。日本の公司は、新入社员教育に大変な投资をする文化がありますし、私にとって何よりも世界でも评価の高い労働伦理、そして顾客志向を学ぶ大切な経験だったと思います。世银は顾客相手の仕事ですから。

そして英国留学

上智大学の指導教授に留学のことを相談したところ勧められた、サセックス大学のInstitute of Development Studiesから入学許可をいただき、念願の大学院進学を果たしました。会社を退職し、留学するまでの半年ぐらいの間に、ブリティッシュカウンシルという英国の国際文化交流機関で、選抜されたイギリスの大学に行く学生のための特訓を受けました。英語での論文の書き方から、プレゼンテーションの仕方をみっちり仕込まれました。それでも渡英後、最初の1年では英語に苦労しましたね。子どものころ海外にはいましたが、親の教育方針で全日制の日本人学校にいたので英語で勉強するアドバンテージはまったくといっていいほどなかったんです。特に数学。現代主流の新古典派経済学では理論を数式で表現することがほとんどなのですが、例えば乗数、微分、積分などの専門用語を英語で知らなかったので最初は大変でした。それでもそれまで正式に経済学を履修したことがなかったので、理論を数式で説明するということが非常に面白く、がむしゃらに勉強しました。サセックスで経済学修士取得後、欲が出て今度はロンドン大学で金融学修士を取得。運がよく学業を認められて、英国政府からの奨学金を頂き、ケンブリッジ大学の博士課程に進むことになりました。

英语で苦労したりもしましたけれど、それまでの勉强というのは一生悬命勉强すればいい成绩がとれるものでした。でも博士号ではその分野に贡献することを要求されるので、今までの学习方法と全く违う。自分が新しいものを生み出さなければいけないんです。この违いに惯れるまでの间は戸惑いも大きかったですね。ケンブリッジ大学の博士课程の指导教官が着名な方だったんですが、ものすごく厳しくてまるで鬼のような人(笑)。あまり良くない出来栄えの论文を持っていった时、见ている前でゴミ箱に捨てられたこともあります。本当に指导は厳しくて、よく泣かされました。今ではいいトレーニングだったと素直に思えますが、当时は本当に苦労しました。

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経済学の博士论文のひとつの章に、経常収支と対外债务の持続性についての理论を述べたのですが、ケーススタディとしてベトナムを取り上げました。1994年にベトナム戦争以来続いていたアメリカの経済制裁から开放され、ベトナムが経済的にどんどん成长していったもっとも面白い时期ということもありましたが、ちょうど1994年に滨惭贵でサマーインターンをした时、ベトナム国担当のチームに配属され、豊富なマクロデータを入手することができたということも大きな理由です。博士课程にいる间に世银と滨惭贵でインターンシップを経験したんですが、どちらもその机関を知るという意味では大変役に立ちました。博士号取得后にはどちらかの机関にぜひ就职をと考えていたので、両机関の职场の雰囲気、仕事の内容、採用状况などできるだけ情报を得ておきたかったのです。思いがけなく得た収穫は、世银、滨惭贵ならでは手に入る最新のデータ、経済学に関する书籍はほとんどなんでもそろっている図书馆、そして(无料の)コピー机。その后、博士论文を执笔する上で大変役に立ちました(笑)。

「仲间意识」が生まれる驰笔笔

インターンでの経験を通じ、やはり博士号取得后はワシントンに、と思いを强めました。博士课程在籍中にヤング?プロフェッショナル?プログラム(驰笔笔)に応募して无事に受かり、论文を终了后に世银に入行することになりました。驰笔笔を通じて世银に入行する日本人には帰国子女が多く、私自身も小さい顷に海外で生活した経験があります。しかし、私の场合、欧米の高校や大学の出身ではなく、普通の日本人と同様に日本で教育を受け、大学を卒业し、日本で一般公司に就职しました。はじめにお话ししたとおり、学部の専门も开発経済学とは関係の无い文学部です。それでも、その后の进路変更でこのように驰笔笔を通じて世银に入行し、国际开発に贡献することもできますので、若い人にはいろんな可能性があるということを知っていただきたいと思います。

驰笔笔の1つ目のローテーションでは最初东アジア?太平洋地域総局の贫困削减?経済管理局マレーシアチームに配属されました。ちょうどアジア危机の最中だったのですが、各国が滨惭贵依存の経済改革を遵守する中で、マレーシアだけは、滨惭贵に対峙した独自の资本规制策を导入し、それが自由市场主义に反することから大きな话题となりました。その资本规制导入は海外からのマレーシア?リンギットへの投机を规制し、通货を安定させて経済回復を図ることが目的なのですが、当时首相を务めていたマハティール氏は、顺调な経済成长をしてきた国がマネーゲームの饵食となり、為替が乱高下して、経済が疲弊したと、アジア通货危机の现状を総括。その上で新しい外国為替规制を导入し、海外投资家によるリンギットの取引の规制を行い、流动性を制限することによって国内金融市场を海外から隔离する究极の政策をとりました。ですが资本规制策、特にマレーシアが导入した反市场的なタイプは短期的に効果があったとしても、长期的に経済にゆがみをもたらすという点で非常にリスクが大きく、ひとつ间违えば、外国资本を逃がすことになりかねません。私の世银での最初の任务はマレーシア政府に対し、こういったリスクを唤起し、资本规制の改革を促すための非常に重要な政策提言书をまとめることでした。

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运よくマレーシア政府は私が提言した出口戦略に沿って1999年2月から徐々に资本统制策を缓和し始め、そして景気回復期待の高まりから国际资本流入も次第に回復に向かいました。最初の任务がうまくいったので、2つ目のローテーションでは南アジア地域総局の贫困削减?経済管理局にスムーズに决まりました。この南アジア地域総局で、大変いい上司に恵まれ、叱咤激励されながら育ててもらえました。最初南アジア地域総局からお话をいただいき、初対面の际、私はこの上司となる彼にどうしたらエコノミストとしてもっと成长できるかと质问したんです。「恐れず失败をたくさんしなさい。そうしてその失败から学びなさい」との答えを闻き、この上司についていこうと思いました。

驰笔笔は非常にいいプログラムだと思います。同じぐらいの时期に、同じような年顷の人が30~40名程度入るので仲间意识やいい意味での竞争意识が生まれますし、先辈にも后辈にも驰笔笔出身者がいるのでそういう人にアプローチもしやすいですしね。驰笔笔で入行しているということは、ある种の选抜をくぐりぬけて入ってきているということなので、信頼も得やすく世银でキャリアを积み始めるにはよいエントリーポイントだと思います。

「30代までは冒険」と、自らの成长のために滨惭贵へ

世银入行后5年目で滨惭贵に移ったのは、自分のキャリアを考えたときにエコノミストとしてもっと成长したいと考えたことが最大の理由です。ブレトンウッズ姉妹机関として同じように见なされがちの世银と滨惭贵も実は一枚岩ではなく、同じマクロエコノミストでも业务内容が异なるのはもちろん、官僚机构の意思决定メカニズムとそのスピード、文化、职人気质もかなり违うんです。まれに両机関で経済政策の内容やタイミングに関し、意见が対立することもあります。长期的に见て、マクロエコノミストとしてキャリアを积んでいく上で、そしてエコノミストとして国际开発に贡献する上で、両机関で业务経験を积むことは非常に有益になるだろうと判断しました。

そういうわけで、ミッドキャリア?エコノミスト採用プログラムに応募をして滨惭贵に入りました。実は、最初は世银の上司と人事部に休职扱いでと交渉したんです。どういうわけか局长にまで话が行ってしまって、局长自身から「絶対駄目です、とんでもない」と言われ、それが交渉しているうちに、「では行ってもいいけど必ず戻ってきなさい」と言われたんです。でもまだ若かったんでしょうね。向こうのほうが仕事が面白いかもしれないし、滨惭贵もうちに来るのならといい待遇を提示してくれたので、そんな约束はできない、と突っぱねてしまってすっぱり世银を退职して滨惭贵に行ったんです。「30代までは冒険して、40代では平穏な人生を」と、なんとなく自分の人生を思い描いていたんですが、まだ30代だったからそんな向こう见ずなことができたんでしょうね。世银と滨惭贵では姉妹机関とはいえ、当时は年金制度の互换性?可搬性が全くなかったため、転职は将来の年金受给にも大きく影响する重大决断でしたから。结局现在は両机関の年金制度はリンクされているので、最终的には将来の年金受给に重大な影响はなさそうです(笑)。

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滨惭贵で配属になったのは、财务政策局。财政専门エコノミストとして地域局の国担当チームに配属され出张に参加したり、技术局として政策调査?研究も盛んでした。世银出身のためたくましいと思われたんでしょうね。割り当てられた国は脆弱国、とくに治安に问题がある国ばかり(笑)。特にパプアニューギニアは地域开発银行でさえ、女性职员を送り込まないような国。滨惭贵のチームを空港まで迎えにきたのはいわゆる装甲车で、武器こそは装备されていないものの、防弾ガラス防弾タイヤ装备、无线机能までついた、まさに私から见たら戦车でしたし、夜中にはホテルのすぐ外で銃声がしたりするようなところでした。滨惭贵での経験での一番の収穫は、やはり业务、とくに中期経済予测に用いられるファイナンシャル?プログラミングという手法の习得です。そして滨惭贵时代に培った人脉も、滨惭贵で垣间见た意思决定のメカニズムも、后で世银に戻ってからも非常に役に立っています。世银のマクロエコノミストである以上、滨惭贵のエコノミストと协调して仕事をしていくのは必须ですから。

ただ、滨惭贵では仕事をする上でクライアントである途上国との距离が远いということは感じました。滨惭贵の业务のひとつであるサーベイランス(政策监视)は、特に融资を受けている国にとってはそれが経済政策に対して滨惭贵の実质的なお墨付きとなるため、どうしても国侧は滨惭贵に対して弱点を控えめに报告しがちです。そのため、クライアント国と率直に経済政策の弱点に対し改善策を议论する机会が、个人的には世银にいた时と比べて限られているような気がしました。私はよりクライアントと近いところで仕事ができる世银のほうが肌に合っているんじゃないか、ということに気づいて、「世银に戻ろう」と决意しました。

世银への再入行、现在とこれからの仕事について

とはいえ、简単に戻れるだろうと思っていたら、これが甘かった(笑)。戻るのは本当に大変でしたね。世银外部に公募されるポジションに応募するのですが、ひとつのポジションに対し200―300人の志愿者が世银内外から応募するので、最终审査の面接までこぎつけてもオファーを実际手にするまでしばらくかかりました。いくつかのポジションに応募して、2005年に世银に戻りました。滨惭贵では3年弱働きました。

戻ったときはアフリカ地域総局に配属され、滨惭贵の経験を见込まれて、ジンバブエやセーシェル担当になりました。政治的混乱、一贯性のない経済政策、深刻な食粮不足、そして想像を絶するハイパーインフレーションの真っただ中だったジンバブエや、マクロ不均衡、そして债务危机に陥ってにっちもさっちも行かない状态のセーシェルと、国际社会の経済援助から缔め出された両国の政府高官からは信頼され、非常に困难でしたがやりがいがある仕事でした。

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2009年の5月から现在の経済政策债务部という部署に移ってちょうど1年半程が経ちますが、现在担当している仕事には大きくわけて3つあります。1つはマクロ政策、特に财政政策を中心に调査研究?分析。例えば近年は金融危机があったので、こういった外部的ショックに対しどういった政策対応が一番有効であったか、将来同様のショックの発生に备え、持続的成长、贫困削减に対する妨げを最小にするための準备态势と早期警戒を促すための効果的なメカニズムの设计に取り组むなど、研究?分析结果に基づく最新のベストプラクティスを世银内の知识基盘として蓄积すること。そしてこれらの分野に関し、世银の公式见解をまとめた文书を干部用に作成すること。2つめは世银の内部で上がってくる融资案件?国别援助戦略?政策提言书などの书类をレビューしてコメントをすること。3つめはクロスサポートというんですが、地域総局の国别担当エコノミストの要请に応じ経済分析の支援、时には直接途上国政府に助言をする。例えば、国别担当エコノミストからある政策について助言を仰ぎたいとの依頼が来ると、他国の具体例を入れた文书をまとめ、政策アドバイスをする。この1年间ではジンバブエやボツワナ、インドやバングラデシュなどにクロスサポートを行いました。

これからのビジョンとしては、エコノミストとしてさらに成熟することに注力していきたいですね。世银のエコノミストとしてのクライアント国と向き合う仕事を続けるにあたって、一度は政府侧にたって政策実行に携わる仕事も経験する必要もあるかもしれません。

「日本人としての夸りと责任」を持つ

世银でマクロエコノミストとして活跃したいならば、経済学博士号は必要だと思います。もちろん、なくても入行している人、活跃している人もいないことはないですが、経済理论に基づいて政策决定をするエコノミストという仕事を遂行していくには、できる限り経済理论?経済分析に必要な技术は世银に入行するまでに蓄积しておいた方が良いと思います。それに英语を母国语として育っていない者としては、英语でものを书いたりプレゼンテーションしたりする训练になりますし、周囲に対するある种のシグナリング効果ももたらしてくれます。それから世银を目指している方にはフルタイム、できれば正社员で职务経験を何年か积んでいただきたいです。先ほど言ったとおり、个人的には日本での职务経験を积むというのも非常に有益だと信じています。

幼いころから両亲に言われていたことは、「日本にいたらあなたはたくさんいる日本人のひとりにすぎないけれど、外に出ればひとりの日本人なんだ」ということ。まだ世界で活跃するような日本人が少なかったということもありますが、「あなたの言动は日本人の代表として见られるのだから、きちんと责任感を持って行动しなさい」という教えを、私自身无意识のうちにずっと心の中に抱いて行动してきました。実际に国际机関で働いてみて、これは非常に大切なことだと実感しています。例えば一人の世银职员は、世银で働いている一万人强の职员のひとりでも、クライアント国から见れば、まさに世银そのもの。一个人の行动が、世银全体の评価に関わることもあります。世银で働くということは程度の违いはあっても、政府そして、その国民に影响を与えるということであり、世银各职员の提言に重みと责任があります。そのことを逐一考えながら行动する必要があります。

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