英検マニアだった中学时代 小2から中1までニューヨークにいたんです。京都の田舎で生まれたので、ニューヨークにも、帰国した東京に対してもかなりのカルチャーショックを受けましたね。ずっと現地の学校に通っていたので、日本语はもちろん数学など他の教科にもあまり自信がなくて、中学の頃はとにかく自己肯定のために英検を受けていました。英検で1級を取ると、次は国連英検を受検。もう半分趣味ですね。このときに国連についても勉強して、「面白いなぁ」と興味を持ったことが、今国際公務員として働いているきっかけになったと言えるかもしれません。
高校は帰国子女が多いという国際基督教大学高等学校を選びました。ただ、女性がものすごく多かったので僕ら男子はすごく立場が弱くて。よく英語と日本语両方で罵倒されていましたね(笑)。ただその分男子の結束は固くて、未だに仲がいいんですよ。英語はライティングから何から徹底的に鍛えられました。入学してすぐの授業で、先生達に言われたことは「自分たちが英語をできると思うな」。提出した英語のエッセイに、真っ赤に書き込みが入って返ってきたことは忘れられないですね。部活はラグビー部とロック部に所属していました。
部活に热中した大学から银行に就职 高校卒业后はそのまま国际基督教大学(滨颁鲍)に进んだのですが、高校のときに始めたラグビー部の活动が忙しかったというのが、大学での一番の思い出ですかね。本当のところ、大学の课外活动はもうちょっとハードじゃないところに入りたかったんですよ。でも知らないうちに入部手続きが済んでいて、练习表を渡されて(笑)。指をケガするとギターも弾けないので、音楽の方は両立できなくなってしまいました。
国连英検を受けたことなどで兴味を持ち、大学では国际政治を専攻しました。就职を意识しはじめた顷に、あるカリキュラムでカントリーリスク分析という授业があって。国ごとのリスクを细分化し、数値化するというものなんですが、「そんな世界の见方があるんだな」と兴味を持ちました。たまたまその教授が东京银行出身で、そんなことをやっている银行もあるんだな、と面白く思い、银行と商社に就职活动をした结果、东京银行に入行することになったんです。
2年间の勤务后、语学研修でトルコへ 东京银行では、1年目は翱闯罢。2年目からはセールスデスクで為替をやっていました。顾客リストがあって、その顾客相手に先物予约だとか、デリバティブのセールスをやっていたんです。ちょうどその顷东京银行が合併になって、本店勤务になりました。「そろそろ海外に出る年齢だね」という话になり、自分では「為替をやっているんだから、ロンドンか、ニューヨークか???」と思っていたのに、なぜか会社から命じられたのはトルコでの语学研修。ちょうどそのときに婚约もしていたので、まず自分が行って6か月间で家を见つけたり、ある程度言叶を覚えてから日本に帰り、结婚式をあげて妻と一绪にトルコに渡りました。当时は断水や停电が珍しくなく、妻はいろいろと苦労していたようです。
トルコの1年目は语学学校へ。続く2年间を驻在员として勤务しました。事务所にいる日本人は所长と自分だけだったので、何でもこなさなければいけない日々でしたね。ちょうどその顷は、株式市场が前年比平均4000パーセントの成长を遂げるという経済成长期のまっただ中。2年目には大地震が起こって顾客の安否确认に駆け回ったり、経済危机が起こったりと、とにかく忙しい日々でした。トルコの人々はなにわ节というか、とにかく义理人情にあついんですよ。大地震のときも、いままで受けてきた恩に応えようと所长が义援金を集めて会社の名前で支援団体に寄付をしたんですが、大変感谢されました。これが初めて国际协力に関わった経験かもしれません。
时间をかけた大学院留学準备 イスタンブールで都合3年间を过ごし、日本に戻ってある建设会社に出向していたんですが、前々から考えていたこともあり、半年ほどで退职して大学院へ进学することを决意しました。為替の仕事をしていると、例えばマーケットの动きとして、こう动くと结果としてこうなる、ということは叩き込まれるんです。でも忙しさのあまり、なぜそうなるのかを深く考える暇がない。大学でもあまり勉强したという思いが无かったので、一度腰を落ち着けて勉强したいと考え始めていました。実は、トルコに行く前に一度合格していたんです。その时は悩みましたけど、まったく新しい言语を覚えるのなら若いうちの方がいいと思ってトルコに行くことを选んだという経纬があったんですね。
でも、トルコにいる间にも大学院に行きたいという思いは持ち続けていて、骋搁贰や骋惭础罢はかなり计画的に时间配分をして受けたりということはしていましたね。働きながら大学院受験を目指すと、あまり寝られないというような生活にどうしてもなりがちですが、ある程度长期的に考えて何もかも一気にやろうとしなければ、少しは负担が减るかもしれません。
それで、再受験して合格したのがタフツ大学フレッチャー校。その顷には、开発をやりたいという思いは自分の中で固まっていました。実はトルコ驻在中にトルコ语を勉强するためにニュースは欠かさず见ていたんですが、ある日「最先端技术を导入」というニュースの直后に、「ある村で井戸を掘ることができて、きれいな水が使えるようになった」というニュースが流れたんです。最后のカットで、牛が泥水を饮んでいるシーンが映るんですが、カメラが引いていくと手前でその水を子どもも饮んでいる。トルコは贫富の差が激しいところなんですよね。それを见たときになぜかものすごく腹が立って、3日ぐらい谁とも口を闻けませんでした。こういう状况を何とかできるならば何とかしたい。その思いと、自分のキャリアを无駄にせずに贡献できるという思いで、开発金融の道を目指すことにしたんです。
「切ない」思いをした大学院时代 大学院に入った顷にはもう30前后になっていて、授业についていくために2时3时まで勉强するわけですよ。でも、26、27歳ぐらいの天才がいるんですねえ。彼らは「寝ないとパフォーマンスが悪い」とか言って10时ぐらいに寝ちゃうわけです。こっちは実务経験もあるし、会社では部下もいたのに「ごめん、コーヒーおごるからコレ教えて!」。本当に切ない话です(笑)。
1年の夏に世界银行でインターンを経験したんですが、これが决まるまでがまた大変で。普通、大学院生の夏のインターンは11月ぐらいまでに决まるんですが、僕は2月まで决まらなかったんです。もう、「东京に帰って炊事洗濯しながらコンビニで働こうか」と一时は真剣に思い詰めましたよ。そんなときに参加したあるワシントン顿颁でのフィールドトリップで、世银の日本人职员の方と偶然お会いしたんです。本当にたまたまなんですが、その方が「トルコで财务分析ができる人が必要だから」と言ってくださって、インターンに参加することができました。卒业后の就职も苦労しましたね。ざっと日米60社ほどから「この度はご縁がありませんでした」という旨のメールが届いたんです。もう31ぐらいでしたから、ポテンシャルで取ってもらえる年じゃない。闷々としていた顷に、インターンでお世话になった方に、コンサルタントでよければ来たら?と言って顶いたので、世银に入行することになりました。
就职活动の结果、晴れて世界银行グループへ 入ったはいいけれど保険もないし、妻も呼べない。1年间コンサルタントとして勤务したんですが、大学院时代と合わせて3年间妻とは别居生活でした。本当に头が上がりませんよね。このまま続けてもいいのかという疑问もあって1年后には东京に戻り、また就职活动をして今度は无事、某外资系公司からオファーをいただいたんです。妻に意见を闻くと「国际机関でまだやり残してることがあるんじゃないの?」と言ってくれて、世银で続けることにしました。その顷にはもっと安定したポジションになっていたのでようやく妻を呼び寄せることができました。
その2年后には国际金融公社(滨贵颁)に移ってスリランカでの新エネルギーを使った小型発电など、再生可能エネルギーに関しての仕事を担当。その后、现在所属している世界银行のヨーロッパ?中央アジア地域総局のエネルギー担当部署へ移り、エネルギー全般の政策担当と投资案件を担当しています。现在はモルドバ共和国でのエネルギー全般に関する政策対话とプログラム全般、トルコでの省エネルギーに関する政策やプロジェクトをタスクチームリーダーとして担当。トルコ语はビジネスに関する话はできますが、日常会话になるとお手上げ。逆に妻は、トルコ语で交渉させたら天下一品ですよ。トルコ人のおじさんが半泣きになります(笑)。
「自分の言叶に责任を持つ」ことの重要性 开発学って実は意味が无いと僕は思っているんです。つまり、経済とか统计とか各分野の専门家が、ちょっと视点を変えてやっているのが开発。ですから、若い人たちには何か自分のコアになるものを见つけて、それを追求して欲しいと言いたいですね。ファイナンスでも教育でもいいので、自分の兴味がある分野で正しい知识を身につけ、自分の考えを深めていって欲しい。国际机関にいると、毎日のように自分の责任の重さを実感しますし、それゆえ自分の発言や书いたものには非常に気を使います。例えば统计を一つとっても、ただデータ処理のやり方ではなく、その数字が表わしている人々の生活を意识しながら総合的に考えられるような専门性と知见を备えてほしいと思います。ですから、知识と専门性を身につけた上で、责任を持って仕事をする姿势がとても重要だと思います。