英语力が与えてくれた将来への展望 父の仕事の関係で、8歳から14歳までアメリカのアイオワ州にいたんです。それも、町の端から端まで自転车で20分ぐらいというけっこうな田舎。日本人は町に3家族しかいなくて、しかも子どもがいる家庭は私たちのところだけでした。中学3年のとき日本に戻ってきてすぐ受験ということもあって、帰国子女枠がある国际基督教大学高等学校(滨颁鲍高校)を受けてそこに进学しました。実家から高校までかなり距离があったので寮に入ることになったんですが、同じぐらいの年ごろの女子学生たちとの共同生活には、思った以上にカルチャーショックを受けましたね。まったくの他人と暮らすって気を使うものなのだと思いましたし、実家のありがたみを実感しました。
アメリカにいた时にブラスバンドでフルートをやっていたので、高校でもオーケストラに入ってフルートを続けていました。帰国子女が全体の3分の2を占めるという特殊な环境だったこともあって、英语については能力别にクラス分けがあり、英语でエッセイを书いたりシェイクスピアを原文で読んだりと、欧米の学校と同様の授业を受けることができました。こういった学习环境は自分にとっては非常にラッキーでした。英语に対する自信につながりましたし、「将来は英语を使って何かできればいいな」と思い始めたのもこの顷からだったと思います。
交换留学で様々なものを得た大学时代 大学は、そのまま推荐枠で国际基督教(滨颁鲍)大学へ。社会言语学専攻だったんですが、きっかけはこの学问への兴味というよりも、この人のもとで学びたいと思える教授との出会いでした。クラブ活动は高校と同様にオーケストラに入ってオーボエをやっていたんですが、毎年春と夏に行うチャペルの前でのコンサートが印象に残っています。自分は小さなパートに过ぎないけれど、「皆で力を合わせれば、こんなに素晴らしい音が出るんだ!」と感动しました。谁かが突出しても怠けてもダメで、皆で协调して作り上げるあの一体感は忘れられないですね。
在学中に1年间、テネシー大学に交换留学しました。どうしても留学したくて、「滨颁鲍には顽张って家から通うから、下宿代は要らないから留学させて!」と亲を説得しました。テネシー大学で学んだのはジャーナリズム。授业の一环で记事を书いて地元の新闻纸に投稿したことがあったんですが、掲载されて25ドルの小切手が送られてきたときは、本当に嬉しかったですね。学校新闻にも记事を书いて、英语でものを书くことの面白さに目覚め、これを自分の仕事にしたいという手応えを感じて留学から帰ってきました。小さいころに纸粘土でピラミッドを作ったことがあるぐらい、インカやマヤ文明に兴味があったこともあり、アメリカからメキシコに旅行もしました。そこで先进国にはない人々の生きることへの力に心を打たれ、発展途上国への兴味も芽生えていました。
教授がフィリピン政府による研究活动に携わっていたこともあって、卒论のテーマは「フィリピンにおける言语政策」。卒业旅行の一环として、ウィクリフという団体が主催するフィリピンでのスタディツアーに参加しました。タイ、マレーシア、シンガポールまで友达と旅して、それからスタディーツアーに参加するためにフィリピンを访问したんですが、初めての东南アジアでの体験は何もかもが新鲜で、惊きと学びに満ちた数週间でしたね。
ロイターでの记者生活 就职活动が始まり、日本の新闻社のセミナーを受けたりもしたんですが、英语が生かせるのかという疑问もあって途中で受けるのを止めました。色々と调べていくうちにロイターに滨颁鲍の卒业生がいることを知り、まずその方に话を闻いたところ、実は他にも外国の通信社はいろいろとあることを教えていただきました。ただ新卒を採用している会社は少なかったので、自分でアポイントを取って话を闻かせてもらう、いわゆるインフォメーションミーティングを独自にしていました。自分が兴味がある心理学や社会学、そして开発をどう仕事に结びつけられるのかについて考え、日本赤十字などを受けたりもしたんです。
最終的にはロイターに入社することになり、東京で日本语で取材をし、英語で記事を書くといった仕事をしていました。ロイターは経済が強いので、主に経済の記事が多かったですね。ただ外国に出たいという気持ちがどんどん強くなり、空いているポストに応募して最初はニュージーランドに。一度は途上国で仕事をしながら暮らしてみたいという思いを実現するため、その次はフィリピンに飛びました。やはり、実際にフィリピンに住んでみると、それまでは見えなかった色々なことが見えてきましたね。貧富の差に最初は驚きましたし、インフラ、システムなどがうまく機能せず、思い通りに事が進まないことなんて日常茶飯事でした。でも、例えばアパートの部屋に洗濯機をいれてほしいと頼んだら、平気で壁に穴をあけてパイプを通すなど、思いもよらないような形でフィリピンの人たちは解決策を見つけてくれたりもしました。うまくいかないことがあってもなんとかなると、物事をポジティブにとらえることができるようになりました。嫌な経験もしたけれど、思い入れもありますし、私にとっては愛すべき国ですね。フィリピン人の主人とも、この時に出会って2年後に結婚しました。
ウィーンでの主妇时代、そしてカナダの大学院へ
もともと自分がジャーナリズムでやりたかったのは弱い人の声を汲み上げて报道すること。それなのに、今まで自分が书いていきたことは、お金储けに関する记事ばかりではないのか…そんな疑问をふと持つことがあり、记者以外の仕事にもチャレンジしてみたらどうか、などの思いもあり、结婚を机にロイターを辞めて主人が住んでいたオーストリアのウィーンに移りました。しばらくはドイツ语を勉强しながら主妇をしていたんですが、2年が経つころ、やっぱり専业主妇は性に合わない、自分は仕事を通して社会と関わっていたいという思いが强くなり、復职のきっかけとして大学院に行こうと思ったんです。当时兴味があったのは心理学だったんですが、仕事に结びつく学位は何だろうと考えたときに、ビジネス出身の主人が惭叠础を勧めてくれて、不安はありましたが惭叠础をとろうと决心しました。
当初はウィーンに住んでいるということもあって、オンラインで受験勉强をはじめ、イギリスやアメリカの通信教育で学ぼうと考えていたんです。ただ、骋惭础罢というのは5校まで无料で成绩を送ってくれるので、宝くじのような気分で普通の学校にも送ってみようと思ったんですよね。当时、主人が自営业を始めたいという希望もあって、他の国に住もうかという话も出ていたので、カナダの大学にも出してみたら、见事に合格!まず私が先にカナダに行って、1年后に主人が移って来ました。大学院の1学期が终わった时点で永住権が取れたので、そのまま卒业して就职もしたんです。
カナダで就职活动をして気付いたのは、ある程度年齢に达すると、勉强したことよりも仕事での経験の方が重く受けとめられるということ。2年间大学院でマーケティングを学んできたけれど、マーケティングで受けた会社は面接にもこぎつけられないことが多かったですね。カナダでは社会経験が重视される倾向があって、一绪に大学院にいた中国人やインド人はカナダへ移住してきた人たちだったのですが、皆自国ではすごいことをやってきた人たちなのに仕事がないといった状况でした。かといってジャーナリズムには戻りたくないと考えていたある时に、広报はどうかしら、と思いついたんです。元々メディアにいたから対応も理解できるし、大学院でビジネスの勉强もしたし、というわけで広报に绞って就职活动をし、ワールドビジョンという狈骋翱に就职することができました。
ワールドビジョンでは、広报戦略やプランを作成したり、メッセージやレポートなど、他の人が书いたものを手直ししたりといった仕事が多く、书く机会が减ったことが少し寂しかったですね。ただ、それまでの记者生活では自転车操业のような毎日で、先のことは全く考えられないような生活でしたから、今の世の中がどうなっていて、そこにどうやって食い込めば自分たちの主张が闻いてもらえるのかについて考えることは、また违った面白さがありました。ただ、ワールドビジョン?カナダがカバーするのはカナダのみで、メディア対応といっても数社中心。もっと幅広い活动をしたいという思いがだんだんと强くなっていたある日、世界银行の募集をウェブで见つけて、応募をしてみたんです。
世银広报部での仕事内容
それまでに他の国际机関にも応募はしていて、だいたい6、7ヶ月ぐらい后に返事が来ることが多かったんですが、世银は比较的すぐに连络があって、电话面接の后、ワシントン顿颁で面接といった流れでした。
现在の仕事内容としては、広报ということで新闻、テレビ、ラジオなどの报道対応が中心ですね。取材依頼に対応するのはもちろん、世银から何かを発信する际にはどんなメッセージでどの媒体が最适なのかなど広报戦略を検讨することもあります。着任してからまだ5ヶ月しかたっていないのですが、感じたのは色々な地域の声を世银全体の声として発信するため、世银内部での调整も大切な仕事の一环だということです。
具体例でいうと、今年の1月にゼーリック総裁がインドを访问した际には、私はプレスリリースを报道各社に送ってウェブに掲载したり、报道ぶりをまとめて総裁に报告するなどという侧面支援を世银本部の広报チームと共に担当しました。総裁に同行する広报担当者はまた别の者で、报道関係の日程调整ややりとりは南アジア地域総局の広报チームとインドのカントリー?オフィスの広报の人々が担当しました。このように、ひとつのイベントに、さまざまな広报チームが関わっているので、调整がとても大切になるわけです。
また私が日本人ということもあって、特に日本メディアには力を入れています。具体的にはワシントンDCに駐在している報道各社への挨拶回りから始まって、各社が世銀にどういうイメージを持っているかを把握したり、日本语のプレスリリースを送ることもします。この部署にはずっと日本人スタッフがいなかったようなので、私が担当窓口となることで、情報の交通整理をしたり、日本の報道各社といい関係を築いていければと思っています。
色々なカルチャーやバックグラウンドを持つ人と働くことが好きなので、国际的な场所でこれからもずっと働き続けていたいですね。自分の一生の时间を见つめると、どうしても仕事に费やす时间が多くなるので、できるだけ世の中が少しでもよくなるような仕事、人の役に立つような仕事ができればいいと思っています。これまでの自分自身の道のりを振り返って思うことは、今13ヶ月になる息子がいるんですが、子供ってこんなに可爱いならもう少し早く产んでおけばよかったということと、惭叠础あるいは何らかの修士を20代にとっておけば、もう少し可能性が広がったかもしれないということでしょうか。
グローバルをローカルに変える重要性 若い人に伝えたいのは、グローバルな问题を身近にすることが大事ということ。飢饿や环境问题など远い世界のことのように感じるかもしれませんが、日本にいても募金活动やスタディツアーに参加するなどできることは必ずあります。勉强して知识をつけることはもちろん大事だけれど、兴味を持ったことに関しては一歩踏み出してほしい。何か行动することで责任をとる必要も出てくるし、その事柄が身近に感じられるはずです。
それから、これは自分自身が気をつけていることなんですけれど、常に自分をブラッシュアップすること。これでいいと思わないこと。物事はやってみないとできるかどうかわからない。新しいことや兴味があることに、なるべく恐れずにチャレンジしてもらいたいですね。