6か国を転々としていた幼少时代 幼い顷から父の仕事でいろんな国を転々としていたので、物心がついたときには日本の外にいたという感じで、日本人?外国人という意识や境界线も自分の中ではほとんどありませんでした。アメリカで过ごした中学、高校时代は一生悬命に勉强したというよりは、卒业するまではあちこち旅に行ったり、スポーツをしたり、ピアノやオイルペインティングなどに梦中になっていましたね。正直なところ、国连や世银などの国际机関にはまったく兴味がなかったですし、自分とは関係のない団体だと思っていました。
将来の展望を一変させた悲しい出来事 それでも、一応数学は得意科目だったので、将来は金融系に进んで投资银行などで働けたらいいかな、ぐらいに漠然と考えていました。ウィスコンシン州立大学で経済学を取ったのも、必修科目だからという理由ぐらいであまり深い考えはなかったんです。そんなときに大学で出会った当时のパートナーは、イスラエル出身の医学生。「医学の実地研修のインターンは祖国でやりたい」という彼女と一绪に过ごすために、応用数学の奨学金を取ってイスラエルの大学院に进みました。当时は博士号を取ったら就职に有利とかそんなことはまったく考えていなくて、纯粋に知识を得ることが楽しかったんです。次はどうなるんだろう、というふうに、好奇心の赴くままに勉强を続けて大学院まで行っていたという感じですね。
彼女の父亲も医者で、休日にはよく彼女と一绪にパレスチナ地区に行って、人々に无料で往诊をしてあげていました。もちろん伟いなぁと尊敬もしていたんですけど、正直なところなぜそこまでするのか理解できない部分もあって、彼女にその疑问をぶつけたことがあるんです。「人は谁でもひとりひとり特别なものを持って生まれてくる。それに気付かずに过ごしてしまう人も多いけれど、その特别なものに気付いた人は、何か自分よりも大きなもののためにそれを使うべきだと思う」というのが彼女の答えでした。しかしある日、いつものように近所のコーヒーショップにコーヒーを买いに出かけた彼女は、爆弾テロに巻き込まれて命を落としてしまったんです。
そんなふうに突然大切な人を失うという経験は、辛いものでした。気持ちに区切りをつけるものがなくて、约2年间、怒りや憎しみ、罪悪感など、人としてマイナスな感情ばかりに浸って过ごしていました。そして3回忌のとき、彼女の母亲に「今のあなたは、あの子が爱していたあなたじゃない」とはっきり言われたんです。はっとしました。「もう一度、彼女が夸りに思ってくれるような人间になりたい。そのために自分に何ができるだろう?」と考えたとき、纷争に巻き込まれて人生を立て直そうとしている人たちの助けになったり、纷争そのものを未然に防ぐ手伝いをするような仕事ができないかと思いました。
やりたい仕事を求め国连から世银へ それで国连に入ったんですが、働いてみて感じたことは纷争への介入の仕方が応急処置的であるということ。远く离れた土地で话し合っている时间がとにかく长く、介入するタイミングも纷争が大きくなってからと、自分としては纳得がいかない部分が多かったですね。2年ほどいる间に色々と他の组织をリサーチした结果、世界银行ならば自分のやりたいことにより近いことができるんじゃないか、と思いました。ヤング?プロフェッショナル?プログラム(驰笔笔) のことは全く知らなかったんですが、同僚がこんなプログラムがあるよと教えてくれて、応募してみたのが世银に入ったきっかけです。选考期间がとても长いので、正直プロセスの最后の方では応募したことも忘れかけていたほどですが(笑)。
世銀に入行して、最初に配属されたのは貧困削減?経済管理総局(Poverty Reduction and Economic Management Network: PREM)。そこで研究をしているうちに、提出する書類や会話などから徐々に「紛争に関わる仕事がしたい」という僕の希望が周囲に伝わって、中東?北アフリカ地域総局で仕事をするようになりました。ガザ地区の局長から「ぜひ来ないか」という打診が来たときは、色々な思い出がある土地ということもあり最初は複雑だったのですが、「いつかは直面しなければならない過去でもあるし、もしかしたらそういう機会なのかな」というふうに自分を説得して、応じることに決めました。
纷争の経済的平和交渉って? 纷争関係の経済再建に関わる仕事は、花形の仕事ではないし危険も伴うのであまりやりたがる人がいない。家族や子どもがいる人はできれば现场に行きたくないでしょうし。ヘルメットをかぶったり、防弾チョッキを身につけて仕事をすることもよくあります。もう一种の特技ですね(笑)。そうすると、组织の中のそういう仕事が次々に回ってくるんです。
世银が1983年顷一度撤退したスーダン(注) に、再びオフィスを开いてオペレーションを始めるというプロジェクトの立ち上げに関わったこともありました。平和交渉というのは、テレビを见ていると外交官などが政治的な交渉をしている场面が多いと思うんですが、実际半分以上は経済関连の交渉になります。経済が纷争を解决する糸口になることも多い。例えばスーダンの场合だと、石油の利権を南北でどうわけるか?モニタリングのシステムをどのように使えば双方にとって公平か。北はイスラム教で南はイスラム教ではないので、政府と中央银行はひとつだけれど银行のシステムは2つあるのをどうするか?など、政治的な交渉では解决しない问题が多くあります。こういった细かい问题を棚上げして、政治的交渉のみで合意に达しても、4?5年するとまた纷争状态に戻ってしまう事例が世银のレポートでも数多く报告されています。
2つの対立していた団体が政府をひとつにしても、お互いのことを信用できるようになるまでは时间がかかるので、一绪に何かをやろうというのは难しい。大抵、国が抱えている课题を解决できません。今の国际社会の介入の方法は、政治的なものが主流で経済は后回しといったケースが多いですが、今后は経済面で助けになれる场面をもっと増やしていきたいですね。
常に自分に正直であるために
この仕事をしてきて思うのは、「世界を変えることはできないけれど、组织として世界を変えるきっかけとなるようなことは始められる」ということ。世银も大きな组织ですから、组织内の政治というのもあって、プロフェッショナルとして自分が正しいと思うことをやり通すと高い代偿がつくこともある。上司や周りの流れに沿った方がラクだし、うまく回ることだってあります。そこは常に迷うところですね。でも、そういうときは「なぜ、何のために自分はこの组织にいるのか」を思い出すんです。毎朝镜の前に立って自分の颜を见るときに、まっすぐ自分を见つめられるようにしたい。できなくなったらこの组织にいるべきではないと思いますし、自分が信じていることと、组织内部の方向性があまりにもかけ离れたときには、自分は别の场所に移ろうと思っています。
ただ、世银で働き始めて12年になりますがまだここにいたいと思うのは、非常に优秀で情热を持って仕事をしているスタッフたちがたくさんいるから。そういった人たちと一绪に仕事ができる自分は幸せだと思いますし、そんな彼らが集まってきて仕事をしたいと思う世银は、组织として素晴らしい场所だと思います。
仕事の合间にジョージタウン大学、ジョージ?ワシントン大学、ジョージ?メイソン大学などで讲义をしているのですが、大学侧からの讲义依頼は时间の许す限り受けるようにしています。というのも、自分が学生のときに最も刺激を与えてくれた教授は、不思议とフルタイムの教授ではなく、週1回讲义に来ている経済学者などでした。自分の视野を大きく広げてくれた教授たちにとても感谢していますが、直接彼らにお礼をすることもできないので、彼らがしてくれたようなことを自分が次世代にすることは、自分なりのささやかな恩返しなんです。
开発の仕事をしたいと思っている方々へのメッセージ
まず言いたいのは「あきらめないで」ということでしょうか。人生の中で何が起こるかというのは、自分で思っているよりもコントロールが効かないもの。何かが起こったあとに自分がどういう行动を取るかはコントロールが効くんです。転んでしまったときに、辛いからといってそのまま地面に倒れてしまうのも选択肢のひとつですし、起き上がって顽张ることも选択肢のひとつ。自分の今までを振り返ってみて、成功と失败の违いというものがもしあるとすれば、何回転んだかは重要ではなくて、「途中であきらめたか」と「最后に起き上がって顽张ったか」の违いでしかない。最终的にあきらめずに顽张れば、人生に失败なんてないと僕は思います。
そして人の言叶を借りる形になってしまいますが、「人は必ず生まれながらにして特别なものを持っている。その力を、自分自身よりも大きなもののために使って欲しい」ということを最后にもう一度伝えたいです。そういう人生は简単でも楽でもないかもしれませんが、必ず自分を成长させてくれる有意义な生き方であると信じています。
(注)&苍产蝉辫;20年以上にも及ぶ内戦后2011年に住民投票が行われた结果、南部スーダンの分离独立が决定され、2011年7月に南スーダン共和国として新しい国が诞生しました。