様々な国で过ごした幼少时代 父亲が外交官だったので、幼い顷から外国を転々としていました。カナダで产まれてシンガポールに移り、その后日本で幼稚园に通い始めて途中でサウジアラビアの幼稚园へ。小学校の低学年はまた日本に戻っていたんですが、日本の教育を受けたのはこの数年だけです。あとは、すべてインターナショナルスクールでした。小学3?4年生はカリブ海のドミニカ国、5年生から中1まではイランで过ごしました。时代も时代だったので、両亲は中2で日本に戻るときに「女の子はお嫁さんになるんだから、お嬢さん学校へ」と考えていたようですが、既に环境や理系の学问に兴味があった私はそんな両亲の言叶に猛反発をして、日本でもインターナショナルスクールに入って高3まで过ごしました。
アメリカでの大学?大学院生活 そんな中でアメリカの大学に行きたいというのは、自分の中でごく自然な流れでしたね。母も姉もごく普通の主婦だったので、キャリアとしてのロールモデルはなかったのですが、母は政治家になりたいという夢を抱いていた人。戦争でそれどころではなくなってしまったけれど、外交官の父と結婚して父を支える中で、彼女なりに自己実現を果たしたんじゃないかと今は思います。そんな母親はいつも私のことを応援してくれて、「Girls be ambitious!(少女よ、大志を抱け)」とクラーク博士の言葉をアレンジしたオリジナルの言葉で励ましてくれました。父親は、娘を心配する気持ちも大きかったのだと思いますがもっと保守的で、最初は「大丈夫なのか?」という感じでしたけれど、私がプリンストン大学に合格してからは全面的に応援してくれるようになりましたね。
大学では生物化学を勉强していたのですが、79年にイラン革命が起こり、かつて住んでいた土地だったこともあって大きなショックを受けました。大学院に进む际にマサチューセッツ工科大学(惭滨罢)とハーバード大学で悩んだのですが、惭滨罢は完全に理系だったこともあり、「もっと社会に関わる勉强もしたい」という気持ちがどこかにあったので、総合大学であるハーバード大学に进学しました。ちょうどその顷にリビアで爆発があって、中东に対する偏见を肌で感じたりとなんとなくもやもやしていた顷に、父が访ねてきたんです。既に父は外交官を辞め、开発の仕事に関わっていました。自然と话题が中东问题になり、70歳の父が信念を持って途上国のために働いているのだから、まだ若い私が问题を抱えている国のために何かしなくてどうするんだ、という気持ちが涌いてきました。
その顷やっていた生物化学の研究は内容的にも地域的にも途上国のこととはかけ离れていたので、大学院3年目で博士课程を中断し、中东の経済についての修士课程のコースに変更しました。「开発関係の仕事をするなら、もっと世间のことを知らなければいけない」と国连でインターンをしているうちに、外务省の闯笔翱派遣制度のことを知り、运良く鲍狈顿笔(国连开発计画)に入ることができました。
国连?ユニセフなど様々な组织での职务経験
アラビア语とペルシャ语を勉强していたこともあって、アラブ诸国でチャレンジングなポストを、という自らの希望で鲍狈顿笔で最初に就いたのは南イエメンのポスト。86年から90年まで3年半いましたが、共产圏の终わり顷という环境の中、色々な仕事のやりとりを学びました。开発では、その地域のルールやカルチャーを知らないと仕事にならないので、そういった事柄を体で学ぶことができたのも大きな収穫でしたね。ただ、鲍狈顿笔でしていたのは、管理业务が主で、私はもっと実质的な业务にかかわりたいという希望がありました。ちょうどそのときに知り合いになったユニセフの方に「ユニセフの方があなたのやりたいことができるんじゃないか」と诱っていただいて、ユニセフに移ったんです。
ユニセフは予防接种や教育などに専门を绞っていたので、より自分のやりたいことに近づけたという実感はありました。ユニセフの中でイエメンからカンボジアへと移り、紧急援助活动の担当になりました。まだクメール?ルージュが健在だった89年顷です。これからカンボジアが选挙に入るという大変なときに肠チフスにかかって、6週间ほどホテルで死にそうになっていました。病院もないのでユニセフの医师に诊察してもらっていたのですが、この时职员に対する组织のサポートについて、真剣に考えざるを得ませんでしたね。「このままじゃ体が持たない」と思い、マニラに立ち寄った际にアジア开発银行の职员の方に诱って顶いてそこにお世话になることに决めました。まだ30代の始めぐらいでしたし、违う组织で様々な経験を积むのもいいんじゃないか、と思えたんです。
アジア开発银行というのは、総裁も日本人で当时の大蔵省や财务省の方々が来ていて、まるで日本の组织のようでした。専门职の人たちが630人ほどいる中で、女性は20人ぐらいしかおらず、そのことが问题になっていましたので、私の最初の仕事は女性を採用することでした。「女性で途上国はきついですけど、大丈夫ですか?」なんて言われるのは日常茶饭事で、日本の组织の保守的さに惊きましたね。当时欧米の组织では途上国で女性がバリバリ働いているのが普通でしたから。结局ここで3年ほど働きましたが、日本の组织についてのいい勉强になりました。
博士号への再チャレンジ→世界银行入行
结局7年间フィールドで仕事をしたわけですが、「もっと开発に関係する勉强をして仕事につなげたい」という気持ちが强まり、、世银に距离的にも近いジョンズ?ホプキンズ大学の博士课程に进みました。鲍狈顿笔にいたときに、系统立てて支援业务をやるならば世银が一番贡献度が高いな、という感想を持っていて、前から世银に兴味は持っていたんです。ですから、最初から勉强しながら世银とのコネクションを作ろうという思いはありましたね。社会に有益になるような学问ということで、医疗経済を研究しながらネットワークを作っていきました。研究の内容は、医疗施设の保険の使用状况や、费用対効果について。徐々に色々な仕事を頼まれ始めるころ、博士号を取ることができて世银の正式なスタッフになりました。
今までの経験を生かしたいと、最初のポストは中东でした。医疗経済政策の助言のため、医疗保険の使用量や顾客満足度などのデータを集めて分析することが主な仕事。世银に入って12年経つのですが、最初の6年は実际にプロジェクトを动かすタスクチームで、后の6年はマネージャーとして働いてきました。タスクチームリーダーからセクター担当マネージャーになって一番の违いは、课题が自分のスキルを上げることから、良质なスタッフの确保になったことでしょうか。いい人材をリクルートして、常にモチベーションを保ちつつ育てていく。セクター担当マネージャーの仕事は器を作ることで、実际に仕事をするのはスタッフたちですから。そういった意味では、彼らや彼女たちが仕事をしていい结果が出るのが、今の一番の喜びですね。
「自分のメンテナンス」が大事
小さい顷から动物が好きだったんですが、私の心の健康を保ってくれているのはやはり动物。现在は马を饲っていて、週末に马と散歩するのはかけがえのない时间ですね。生きていると辛いこともありますし、1人きりだったらとてもやっていけないと思います。そんなときに、动物や周りの人に支えられていると感じます。日本の家族ともこまめに电话しますし、周囲の友达と悩みを相谈したり、体も心も健康を保つためには、メンテナンスが必要不可欠です。
子どものときに梦中だったのが『ファーブル昆虫记』や『シートン动物记』。ひとつひとつの话が印象的で、繰り返し読んでは感动して泣いていました。いずれも読んでいると、昆虫や动物の行动に向ける科学的な観察の目と同时に、深い爱情を感じるんですよね。私は开発もこれと共通する部分があると思っていて、「人に対する爱情を持つこと、同时に科学的であること」が何より大事なんじゃないかと考えています。どちらか一方だけではダメで、両方があって初めて成立するものです。
开発の仕事をしたいと思っている方々へのメッセージ
一番大切なのは、やはり自分を知ることだと思います。自分にとって何が大事なのかを明确にすること。勉强することはもちろん大事だけれど、どうやったらそれを长く続けられるのか。自分はどこまで顽张れるのかを知っておけば、时には人にアドバイスや助けを求めることもできます。挫折することもあると思いますが、そこで挫けてしまったり、意地になったりせず、大らかな优しい心を身につけてたくましく成长して欲しいですね。
日本は豊かな国でしたけど、今回の东日本大震灾で大変な思いをしましたよね。今の苦しみを忘れずに、将来的に日本人として世界に贡献してもらいたいと思います。今までの世界の歴史を见たときにも、危机的状况のときというのは国として、个人として成长するチャンスでもあると思うんです。そういった意味でも、日本の若い人たちにこれからの活跃を期待しています。ぜひ顽张って、これからの国际社会に羽ばたいていってください。
(注)前田さんは2011年4月より首席保健専门官に肩书きが変わりました。