木瓜影院

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特集2011年8月30日

黒田和秀 世界銀行 アフリカ地域総局 国別担当ユニット(エチオピア?スーダン?南スーダン) 上級国別担当官~第38回 世银スタッフの横颜インタビュー

スポーツマンらしいきびきびとした动きでインタビューに现れた黒田さん。登山からスノーボード、フルマラソンまでこなすというのも頷ける精悍な颜つきで、长く籍を置いた国连での仕事や世银でのキャリア、またワークライフバランスについても语っていただいた。

Kazuhide Kuroda

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東京都出身。ウォータールー大学科学部(カナダ)卒業。デルフト工科大(オランダ)、パリIV大学(フランス)留学を経て、マギル大学(カナダ)で経営学修士号(MBA)取得。カナダ在住中に国民軍を経験。国連競争試験(経済?IT各分野)に合格し、旧災害救援調整官事務所(現人道問題調整事務所: OCHA)勤務。アルメニア大地震支援調整、第一次湾岸戦争避難民救援、1994年にはルワンダ紛争人道支援、北朝鮮人道支援調整等に関わる。1998年に世界銀行入行。社会開発局紛争予防復興ユニット(Conflict Prevention and Reconstruction Unit: 改称前Post Conflict Unit)で上級社会開発専門家として勤務。カンボジア、アフガニスタン、東ティモール、イラク、リベリア、北カフカス紛争後地域?国復興支援、世銀紛争?開発、脆弱国家業務政策作成に関わり、国連、世銀連携強化に尽くす。現在は国別担当ユニット(エチオピア?スーダン?南スーダン)所属。趣味は海?山スポーツ、ボサノバ。

様々な体験をした高校时代

中学のときに父亲の仕事の関係で家族でカナダに引っ越しました。文化の面でも言叶の面でも惯れずに苦労しましたが、幸い、若かったので楽しみながら乗り越えることができました。中学?高校生の顷はスポーツや音楽、高校からはそれにアルバイトも加わって、とにかく毎日忙しく过ごしていました。当时はまだ特に将来开発の仕事をしたいというはっきりした気持ちはありませんでしたね。いろいろなアルバイトをやりましたけど、コンサートホールの案内人をしていたのは今でもいい思い出です。当时、小泽征尔さんが指挥者を务めていたトロント交响楽団のコンサートも、何度か仕事をしながら聴いた记忆があるんですよ。

また、高校生の夏休みに友人に诱われてカナダの国民军に参加したことも贵重な体験でした。銃の清扫から始まってシャツのアイロンがけ、靴の磨き方、行进、ジープやトラックの运転など、すべての経験が目新しくて刺激的でしたね。その后の生活で役に立っている経験もありますし、その后纷争の仕事をする上で、実际に銃を扱ったときに「やっぱりこういう物は使用するべきじゃない」と强く思ったことが助けになったこともあり、若い顷の経験はその后の人生でどう役に立つかわからない、ということを実感しました。

世界への兴味を目覚めさせたヨーロッパ留学

父亲が科学者だったこともあって大学では物理を専攻したのですが、大学3年生のときに半年ほどオランダに留学した际、初めて「自分が日本人である」という意识に目覚めたんです。さまざまな人种が集まる北アメリカに住んでいると国籍をあまり意识する机会がないのですが、ヨーロッパでは「そこに住んでいる人と外国人である自分」を强烈に意识しましたね。その留学で国际関係に兴味が出てきてもう少し长く留学したいと思い、大学院に入る前に半年ほどフランスに留学しました。その时はフランスの文化や语学に兴味があったので、国际関係のコースに加え、フランス语をみっちりとやるために4ヶ月ほど発音の学校にも行きました。当时は将来のことはあまり考えていませんでしたが、国连に入ったときの最初の任地がフランス语圏のジュネーブだったこともあって、フランス语を身につけていたことは非常に役に立ちました。

フランスへの留学の际にヒッチハイクでヨーロッパ各国を旅したり、当时のソ连に旅行に行ったりしたことで、外国と関连のある仕事をしたいという思いがどんどん强くなってきたんです。大学では物理学が専攻でしたが、就职が难しいということや国际関係への兴味を考えて大学院では惭叠础を取り、国连竞争试験を受けて无事合格することができました。银行からも内定をもらっていたのですが、「お金を持っている人がもっとお金を储けるための仕事がしたいのか、お金がない人がお金を得るための手助けをする仕事がしたいのか」と自问して、结局国连に行くことに决めたんです。

自然灾害や数々の人灾を担当した国连时代

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国連で最初に配属されたのはジュネーブの旧災害救援調整官事務所(現人道問題調整事務所: OCHA)という部署。自然災害後、現地に支援をうまく届けられるよう調整するのが主な仕事で、メキシコ大地震やアルメニア大地震などを担当しました。1980年?90年代に入って人災が増え、紛争に関する支援が中心に変わってきた頃、同じく国連で働いていた妻がニューヨークに転勤になり、私もニューヨークに移りました。

その后、湾岸戦争でクウェートからヨルダンへと流れ込んだ避难民のケースや北朝鲜への人道支援を扱ったり、ルワンダ担当だった1994年にはルワンダ虐杀が起こり、「なぜこのようなことが起こるのを避けられなかったんだろう」と自分に问いかけずにいられないような、世界的な悲剧をいくつも目の当たりにしながら仕事をしてきました。

いつの间にか国连に入って16年が経ったある日、方向転换をしようとしている世界银行が今までとは违ったタイプの职员を探しているということで、友人に声をかけてもらったのが入行のきっかけです。それまでの世银は「纷争国では开発はできない」というスタンスで、情势が危なくなったらすぐに职员を引き上げて后は国连や狈骋翱などにまかせる体制でした。しかし、1990年代のボスニア?ヘルツェゴビナ纷争をきっかけに「国ごとの支援ではなく、テーマを取り上げてユニットを作った方がいいのではないか」という意见が出て、それまでのやり方を改めようとしていたようです。僕自身、既に国连にかなり长い间いたことや、世界银行への兴味もあって、いい机会だと思い世银に移ることを决心しました。国连本部事务局で仕事をしていた妻と娘はニューヨークに残り、ワシントン顿颁に単身赴任し週末とんぼ返りの生活を始めたのは、1998年のことです。

世银でのキャリアと仕事内容

世银に入行してからはずっと纷争関连の仕事を担当しています。入行当初は社会开発局纷争予防復兴ユニットに所属して、「ポストコンフリクト(纷争后)」の支援だけではなく纷争を予防することも重要」という考えから生まれた纷争予防を主に担当していました。初期の纷争予防は政治的な交渉が中心でしたが、実は开発の観点から支援できることは、例えば若者の雇用や天然资源の管理などたくさんあって、今では纷争予防支援における开発援助の役割はかなり大きなものになってきています。世银の中でも组织改革が始まって、ポストコンフリクトの仕事から政策関连、组织的に世银をどのように変えていくかといった仕事内容にどんどん変わっていきましたね。

现在は国别担当ユニットに移ってスーダンとエチオピアを担当しています。スーダンは2005年まで20年以上も纷争があった国。2011年に住民投票が行われ、南部スーダンの分离独立が决定され7月に南スーダン共和国として新しい国が诞生しました。 しかし、まだ治安は落ち着かず、深刻な人道问题や开発课题が山积していて国际协力が不可欠な状况です。エチオピアは世银の支援额がアフリカ第2位ということもあって多くの投资案件を抱え、またチャレンジも多い国。それぞれの国への支援を円滑に进めるために政策を作成したり、援助国や国连などのさまざまな组织间の调整を行ったりしています。思えば、入行后ずっと世银の中での纷争と开発に関する中心业务を担当させてもらっていることについては、やりがいも感じますし、ありがたく思いますね。

仕事の醍醐味、そしてワークライフバランス

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この仕事の醍醐味は、やはり出张で色々な国を実际に见ることができるということだと思います。カンボジア、アフガニスタン、东ティモール、モザンビークなど、さまざまな现地の状况をこの目で见て人々と触れ合えたことで、学んだもの、得たものがたくさんあります。たとえ言叶が通じなくても、気持ちが通じ合うことってあるんですよね。

国连も世银も大きな组织なので、なかなか自分の思うように物事が进まない面があって、そういう面では「内部での身の処し方」というのが自分にとっては気を使う事柄のひとつです。気がつけば开発の仕事に携わって既に30年近くが过ぎようとしているのですが、自分のいる场所が居心地よくなり过ぎてしまわないように、常に新しいチャレンジを见つけるように意识しています。そういう意味では、世银は勉强することが尽きない大学院のような场所と言えるかもしれませんね。常に刺激をもらえるところなので、世银での13年间はあっという间でした。

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最近、世银元総裁であるジェームズ?ウォルフェンソンと会う机会があったんです。そのとき彼が言っていたのが「仕事以外にもうひとつの人生を持つことは大事だ」ということ。彼自身チェロを弾いたり、投资家の一面を持っていたりと多才な人ですから、非常に説得力がある言叶でしたね。僕自身、仕事と同じぐらいに趣味も忙しいので、その言叶にとても共感しました。自然に触れるスポーツが好きで、登山やスキューバダイビング、スノーボードなどひと通りやっています。娘が高校生になるぐらいまでは补习校などのこともあって忙しかったのですが、大学に入って手が离れたのをきっかけにマラソンも始めて、2011年の2月には东京マラソンを完走することができました。「家庭を仕事よりも优先するべき时もある」と僕は思っていて、例えば自分たちの场合、妻が2年间东ティモールで仕事をしていた期间は、娘の世话のため、ニューヨークをベースに週に3日ほどワシントン顿颁で仕事をするといった生活を送っていました。大変な2年间でしたけれど、今ではこちらの希望に柔软に対応してくれた职场に感谢しています。

开発の仕事をしたいと思っている方々へのメッセージ

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「开発の仕事をしたい」と思うのには、人それぞれ何かしらのきっかけがあると思うのですが、僕の场合は海外に初めて関心を持ったのは、まだ小学生ぐらいの时に见た东京オリンピックの闭会式だったのかもしれません。世界中の人がひとつの场所に集まっている光景に、意味のある「何か」を感じたんでしょうね。そこから始まって、高校生や大学生で考えた「海外を见てみたい」という思いが、そのまま原动力となって今に至るわけですから、皆さんにも时间を忘れて梦中になれる「何か」を见つけて欲しいと思います。自分が一番関心を持っていること何なのか、それがイコール「磨けば光るもの」であると思いますから。见つることができれば、あとは顽张ってそれを磨くだけです。

僕は自分が好きな2つのスポーツから大きなものを学んだと思っているんです。それは、スノーボードとウインドサーフィン。スノーボードは行きたい方向にまっすぐではなく、ジグザグに進みますよね。ウインドサーフィンも風を利用して進むので、自分の行きたい方向にまっすぐ進むことはできません。人生もこれと同じで、行きたい方向がなんとなくわかっていれば、まっすぐ進まなくても大して問題はない。自分で完璧にコントロールするなんてことは不可能に近いんですから、ジグザグに進んでいたって、ときには少しぐらい逸れてしまったって、最後に軌道修正することができればそれでいい。このぐらい大らかな気持ちを持って長期的に見ることが、人生には必要なんじゃないでしょうか。 "Journey is destination" 旅が目的地。毎日を大事に過ごしてください。皆さんのご健闘をお祈りしています。

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