纷争地?旧纷争地をわたり歩く 世界银行には2001年に、経済?财政政策を策定のアドバイスやマクロ経済を分析するエコノミストとして入行しました。以来、インドネシア(2001-07年)とアフガニスタン(2007-10年)で勤务し、世界银行本部の业务政策?国别サービス総局で援助の効率性などを担当(2010-13年)したのちに、上级エコノミストとしてルワンダ(2013-16年)で勤务しました。アフガニスタンもルワンダも近年、戦争?内戦を経験した国です。その后は驻在代表としてブータン(2016-20年)、レソト(2020-24年)に赴任しました。
2024年7月からは、东部?南部アフリカ地域総局スーダン担当カントリーマネージャーになりました。人间开発、インフラ、経済政策やガバナンスなど、多岐にわたる世界银行のプログラムを策定、実施し、そのインパクトを确実なものにするのが主な业务です。そのために世界银行グループによる当该国への支援ストラテジーを作ったり、世界银行の代表として财务大臣と话し合ったり、开発パートナーとの折衝も行います。管理职でもあるので、世界银行内のマネジメントも担当し、人事やキャリア开発の责任もあります。その前の驻在代表と仕事内容は似ていますが、カントリーマネージャーは、より大きくて复雑な国を担当します。
スーダン现地事务所には元々30人近くのスタッフがいたのですが、2023年春に国内纷争が起きたため、世界银行职员はアフリカ各国に避难していました。ようやく最近、エチオピアの首都アジスアベバに7~8人の职员のいる事务所を立ち上げたところです。
海外で都市をデザインしたい 海外で働きたいという希望はありましたが、もともとは国际开発ではなく、子供の顷からずっと、シムシティなどのように自分で都市をデザインしたいという梦があり、都市计画に兴味を持っていました。日本は狭く规制も多いので、土地の広い海外に目が行くようになり、オーストラリアなど、海外で都市をデザインしたいと思っていました。大学ではこの梦を追求すべく、筑波大学で都市计画を学びました。
就职活动の时期はバブルの絶顶期でもありました。どうしたら海外で都市をデザインできるか考えると、财政や金融に関する知识も重要だと思い、プロジェクトファイナンスに强い银行で働けば将来的に自分の梦に近づけると考えました。そこで都市银行よりも、开発金融系の旧?日本长期信用银行(长银、现?新生银行)に就职しました。
でも、大学、银行员时代は圧倒的に英语ができなかったんです。大学时代には赤点をとったくらいで、长银の同期の中でも下から3番目の成绩でした。これが海外で都市をデザインするためには、絶対越えなくてはいけない壁だと思ったので、英会话教室に通って英语の勉强は続けつつ、留学のチャンスを探していました。当时、长银ではアジア、特にインドネシアの専门家を必要としていたので、ロンドン大学アジア?太平洋学院に长银から留学させてもらい、インドネシアの経済危机を题材に开発学の修士号を取りました。ところが、留学中にアジア通货危机が起こり、10年间勤めた长银は経営破绽し、国有化されてしまいました。
レソト首相との会议で世银のレソト支援计画を议论 そのため転职活动していたところ、在インドネシア日本大使馆の経済担当専门调査员の仕事を见つけ、インドネシアについて勉强したことも踏まえて応募し、1999年からインドネシア勤务となりました。
大使馆では、大きな政府组织で、どうすれば物事を进められるのかを学びました。现地にいる大使馆の人たちの仕事や视点を理解することで、どういう情报があれば彼らが动きやすいのかを知ることができたと思います。世界银行でも意思决定権は理事会にありますが、现地で大使馆の人たちと普段から交流し、世界银行の立场や支援プログラムの内容などについて频繁に情报を共有しておくことは、最终的にプログラムを进めていく上でも大切だと思います。
大使馆から世界银行へ エコノミストの道を选んだのは、大学では都市计画とともに経済学を学び、银行でもエコノミストの业务に携わり、ロンドンの大学院でも开発経済を研究していたため、自然な流れだったと言えます。しかし、エコノミストには「博士号を取得していないと一人前ではない」という风潮があり、学位で判断されるのも悔しいという思いで、インドネシア驻在中に名古屋大学で开発経済学の博士号を取得しました。
その顷には、漠然と世界银行で働いてみたいという兴味を持っていたので、博士号を取得する际には、教授阵に世界银行出身者がいた名古屋大学国际开発研究科を选びました。担当の大坪教授はインドネシアからの远隔での受讲も受け入れてくれ、さらに途中でサバティカル(大学教授の长期休暇)でインドネシアに来てくれました。教授は世界银行のインドネシア事务所にも知り合いが多かったため、スタッフを绍介してもらい、世界银行の仕事内容を理解するいい机会になりました。その过程で世界银行で短期のコンサルタント(厂罢颁)のポジションがあると闻き、2001年にエコノミストとして入行し、3年后にはスタッフになりました。
ルワンダで颁狈叠颁による経済政策のインタビュー 仕事もチャレンジも楽しむ世界银行の仕事が大好きで、ずっと楽しんでやっています。ワークライフバランスというなら、自分にとってワークはライフの一环で、どうやって仕事を楽しくやるかを考えています。自分では想像力に欠ける人间だと思うので、本部であるワシントン顿颁から开発支援をやっても、イメージしにくく、现地にいることで楽しさとともにやりがいを感じています。
世界银行には学ぶ机会がたくさんあるのも嬉しいですね。カントリーマネージャーという立场上、リーダーシップやスマートな决定、つまり完璧な情报がない中でどのように最适な意思决定をするかがとても大事ですが、世界银行にはそういうテーマでの研修もたくさんありますし、リーダー向けのコーチをつけてもらって话を闻いてもらったりしています。
他方で、世界银行では数年単位での赴任契约が常なので、仕事への応募と面接を3~4年ごとに繰り返さなければならず、常に次の仕事を探さなければならないプレッシャーはあります。今の仕事では、技能も文化も个人的なバックグラウンドも全て违うスタッフにどう気持ちよく働いて结果を出してもらうかが、チャレンジのひとつですが、これも楽しんでやっています。时々は「今日、(スタッフに)こんなこと言っちゃったな」などと帰宅しても気になるときはありますが、そういう时は自分のリーダーシップコーチに话を闻いてもらったりしています。
レソト首相からいただいた民族衣装を着て これまでアフガニスタン、ルワンダ、スーダンなど纷争国、旧纷争国をわたり歩いてきましたが、纷争地という意味での难しい课题は、安全に気をつけるということ以外に、家族が日本にいる点があります。ブータンまでは家族も一绪だったのですが、子供达の教育环境などを考えてそれ以降は连れて行けず、しばらく単身赴任中です。妻には头が上がりません。日本に帰国する场合、レソトは日本まで36时间でしたが、今いるエチオピアからは14时间になり、だいぶ时间距离が缩まったので、少しほっとしています。
纷争国、旧纷争国も行ってみるとイメージとは违うこともある これまでの驻在先に纷争国や旧纷争国が多く、世界银行では「纷争国?旧纷争国のスペシャリスト」と思われたりしますが、そういう国に行ってみると事前に抱いていたイメージがだいぶ违うことはあります。ルワンダは虐杀の歴史もあって怖いイメージがあるかもしれませんが、行ってみると、アメリカの危険な场所よりは治安はかなり良いと感じました。歴史的な経纬があるので今ではむしろパトロールがしっかりしており、深夜まで仕事をしても一人で歩いて帰宅できました。逆にレソトは一见平和そうな国ですが、杀人率は世界で第5位です。南アフリカから銃が持ち込まれ、政府要人が暗杀されたりすることもあります。自分のことは臆病と思っていますが、纷争国では、自分の生活を管理することで、かなりの部分の治安リスクは避けられることが多いです。
ブータン 「きちんとやる」のはすごいこと日本人は「きちんとやる」ことを当たり前だと思っていますが、それができるのは大きな强みですし、そのためには、準备もフォローアップも必要です。でも、それは当たり前という风潮があり、「きちんとできる」ことのすごさを自分たちで认识せずに、その価値を低く见てしまっているのではないでしょうか。欲を言えば、その强みをどうやって周りにも理解してもらえるようにするかも键だと思います。
人によって强みの中身はそれぞれ违うと思いますが、日本人としての自分に何ができるかは、常に自问自答しています。世界银行のマネージャーは年に一度、上司や同僚、部下など様々な角度から评価を受けるのですが、自分では気付いていなかった强みや改善点に関するコメントも多く非常に参考にしています。私の场合は、「きちんと(自分の専门分野以外でも)サブスタンスを理解したうえで、チーム内で合意を得て物事を进めていく」という、リーダーシップのスタイルが评価されています。色々な文化やバックグラウンドを持つ人が集まる世界银行では、これは大事なことなんです。
自分でハードルを上げていないか? キャリアセミナーでは「世界银行にはどうすれば入れますか?入ったら大変ですか?」とよく闻かれます。でも、最初から「世界银行に入るのは大変だ」とハードルを上げ、「自分には难しい」と自分の相対的な価値を下げ、そこで駄目だったら「ほらやっぱり」と諦めてしまうアプローチは勿体无いと思います。入ろうと思ったら、応募し続けてください。そして、「どう入るか」よりも「なぜこの仕事が楽しいんだろうか」と想像してみてほしいと思います。
确かに厳しい竞争はあります。私も入行する际には、ヤング?プロフェッショナル?プログラム(驰笔笔)を2回も最终面接まで行って落ちたりしていますし、レソトから今のスーダンのカントリーマネージャーに移行する时も、25くらいのポジションに応募しているんですよ。もちろん、不採用通知をもらえば人并みに落ち込みますが、逆にインタビューまで行って落ちたなら、何が駄目だったのか、面接相手に失败要因を闻くようにしています。これは意外に役に立つんです。数十回駄目でもやり続けてください。フィードバックをもらいながらやってみましょう。
レソトでのハイキング 挫けそうな时は他のことをやってみようこれまで何度も、完全にダメ出しされて、挫けることもありましたし、今でも(现在进行形で)あります。でも全员を満足させることはできないものですし、无理に挫けないようにするのも諦めました。むしろそういう时には、视点や环境を変えてバランスをとることが大事です。例えばレソトにいた时は、一人で山に登ったり、仕事以外で「自分ができなさそうなこと」をやってみることで、仕事のことなど考えられないような状况にしました。実は高所恐怖症なんですが、レソトでは200m以上の世界で一番长いアブセイリング(腰にロープをつけて崖を降りるもの)に挑戦しました。また自宅では完全にオフにして、料理したりしています。大失败でしたが、一から豆腐や纳豆を作ることに挑戦したりしてみました。
これまでの経験やみんなの力を掛け算で 自分の兴味は変わっても、その时にベストな选択ができていれば良いと思います。同じところで同じ仕事をするのは楽かもしれませんが、环境を変えることで前よりも仕事が好きになっています。いつも自分の好きなことについて考えるというと、自己中心的に闻こえるかもしれませんが、自己犠牲の上に国际开発の仕事をするというのは违うと思うんです。自分を良い状态において初めて良い国际开発の仕事ができると思っています。
今のカントリーマネージャーの仕事は、学びも刺激も多く、好きなので、今后のキャリアは本部のワシントン顿颁よりも、どの现场に行きたいかという方向で考えています。纷争国、旧纷争国を含めた各国の现场で働いてきた世界银行の职员という横轴と、エコノミスト、マネジメントという縦轴を掛け算できれば、もっと自分の仕事を楽しくできると考えています。
ウクライナやガザのようにニュースにならなくても、纷争は今も至る所で起きています。日本のメディアではほとんど取り上げられていませんが、スーダンは国民の半分以上が十分に食料のない危机的な状况に直面しています。そうした纷争国こそ、开発支援を必要としています。だから、スーダンのような国に行きたいと思いましたし、今后も世界银行のプレゼンスが必要とされる、自分の経験を活かせそうな国に兴味があり、そのために何ができるかを常に考えています。